野間大坊2022
野間大坊(のまだいぼう)の名前で知られていますが、正式には鶴林山大御堂寺といい、本尊は阿弥陀如来です。歴史は古く、天武天皇(673年~686年)の時代に阿弥陀寺として建立されました。源頼朝の父、源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓があります。
弁天池 | ||
大門 | 弁財尊天 |
大門は、平家追討、奥州征伐を終えた頼朝が1190年に寄進したといわれています。境内には義朝のお墓や、御首を洗ったとされる「血の池」等、そのゆかりが多数あります。 |
本堂 | 本尊の阿弥陀如来 |
本堂は3回火災等に遭いましたが、1754年に再建されました。 |
源義朝の墓 | 平康頼供養塔 |
平安時代末期、京都の平治の乱で、平清盛に敗れた源義朝がこの大御堂寺のある野間へ家臣を頼ってやってきました。その家臣(長田忠致・景致)の裏切りに遭い、義朝はこの地、野間で殺されてしまいました。謀反の際、「我に木太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」と無念の死をとげた義朝のため、木太刀が奉納されています。 |
織田信孝の墓 | 池禅尼の塚 | 鎌田政家と妻の墓 |
豊臣秀吉に敗れてこの地で自害した織田信長の三男信孝の墓もあり、重要な史跡が境内に数多く残されています。 |
鐘楼堂 |
梵鐘は、1250年に鎌倉幕府5代将軍藤原頼嗣によって寄進されました。尾張地方で最古の梵鐘といわれています。梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されています。 |
お砂踏 |
お砂踏には、知多四国八十八か所各札所の砂が下に埋まっています。ここを歩けば知多四国八十八か所をお詣りしたご利益をいただけると書いてありました。 |
大黒尊天 | ||
客殿入り口 | 出世稲荷 |
野間大坊は豊臣や徳川の庇護も厚く、各時代で繁栄してきました。本尊が源頼朝の願いを叶えたことから、祈願成就・開運の寺として信仰を集めています。 |
信徒会館 | ||
客殿 |
客殿は豊臣秀吉晩年の居城伏見桃山城の一部を寛永年間(1624~1643)に移築したものです。本尊は源頼朝が納めた開運延命地蔵菩薩です。 |
護摩祈祷が行われていました。 |
弘法大師(空海)が全国を廻った折、この地で一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。現在では、尾張地方屈指の護摩祈祷の寺として信仰を集めています。 |
悠紀殿 | ||
鬼が寝ていました。災難が起きないよう寝ていますと書いてありました。 | 大御堂寺五重塔跡 |
大御堂寺五重塔は源頼朝が父義朝の供養のため1190年に建立しました。室町時代の火災により焼失しました。 |
<冨具崎公園>
1953年に建てられた野間展望台が老朽化し、撤去された所を整備して、1998年に富具崎公園が誕生しました。伊勢湾を一望できる展望広場です。 |
素晴らしい眺望です。伊勢湾、藤原岳などの鈴鹿山脈、伊吹山、中部国際空港が見えました。 |
野間の街並みと伊勢湾が一望できました。 | 中部国際空港に発着する飛行機が見えました。 |
冨具崎公園は細目城趾にあります。細目城は細見家盛河内守がここにいたと言われています。後に水野下野守信元の居城であったという記録があります。 |
冨具神社は旧野間町の総鎮守様、総氏神様です。創建は不明ですが、現存する棟札に、「奉造立風宮大明神御社一宇永正年(西暦1509)巳巳」とあり、当時の村の城主である緒川氏が再建しました。毎年秋には、10月のふぐ漁解禁を前に、ふぐ供養が行われます。 |
二ノ鳥居と境内 | ||
石段の参道 | さざれ石 |
古くは風宮とも言われ、伊勢湾航行の守り神とされ、千石船を始め多くの漁船が片帆を下げ安全を祈ったと言われています。 |