カルタゴCarthago

  カルタゴの起こりは紀元前9世紀、海洋民族のフェニキア人が植民都市を建設したことに始まります。強力な海軍力を後ろ盾に地中海の交易を独占したカルタゴは、その権益をめぐり大国ローマと三度のポエニ戦争を戦うことになります。ハンニバル将軍の活躍もあり一時はローマ軍を追い詰めるも、最後は敗れカルタゴの町は徹底的に破壊されました。廃墟に塩までまかれ草木も生えぬといわれたカルタゴですが、その100年後、カエサル、アウグストゥスの時代になって再建され、フェニキア人の時代にもまして繁栄しました。アントニウスの共同浴場、円形闘技場、ローマ劇場などに往時を偲ぶことができます。古代カルタゴの痕跡は、フェニキア人の最高神を祀ったトフェの墓地や住居跡のポエニ街などにわずかに見られるものの、ローマの都市計画で造り変えられたため、遺跡はほとんどがローマ時代のものです。
  カルタゴ遺跡への入場は共通券になっており、10ヶ所の遺跡へ入場できます。今回は4ヶ所入場しました。 


<アントニヌスの共同浴場>

アントニヌスの共同浴場は、紀元2世紀にローマの五賢帝の一人アントニヌス・ピウスによって建造された共同浴場です。アントニヌスの共同浴場は海に面したかなり大きな建物で、もともとは100以上も部屋があり、装飾が素晴らしく、床にモザイクが、壁にフレスコ画がたくさんあったと言われています。一部の床は残っており、モザイク模様が見られます。 
アントニヌスの共同浴場は、イタリア本土以外ではローマ帝国内でも最大級、イタリア本土を含めてもトップスリーに入る広大な規模で知られています。温浴、冷浴、サウナなどローマ式浴場の跡が残り、さらに遺構が地中海に迫っている為、チュニジアを代表する景勝地としても有名です。  
浴場は2世紀頃にローマ帝国の55代皇帝アントニヌス・ピウスの時代に造られたもので、6世紀頃までは使われました。その後この辺りを支配したアラブ人の時代になると使われずに崩壊していったとされています。1980年代にユネスコにより復元・修復されました。
 
アントニヌスの共同浴場が古代ローマ遺跡の中では一番保存状態も良く、見ごたえがあります。一番高い柱は15mくらいあり、当時この浴場は2階建てになっていました。温水の風呂や水風呂、サウナや更衣室などの施設も揃っていました。
 
修復されているといえ、これだけの規模を約2000年前の人達が築いていたという事実には驚かされます。
ジャカランダの花がきれいに咲いていました。 


<ピュルサの丘>

古代カルタゴの遺跡の中心は、ピュルサの丘です。ここは高台にあり城壁に囲まれたカルタゴ誕生の地です。紀元前814年、フェニキアからここへ避難してきた女王エリッサは、地元のベルベル人から「牛の皮一枚で覆える地」なら貸すと言われました。そこで賢いエリッサは牛の皮を細長く切り裂いてピュルサの丘を囲い土地を得たという建国伝説があります。
古代カルタゴが繁栄し、丘の麓の市街地とビュルサの丘の軍用地は一体となって発展しましたが、第三次ポエニ戦争末期の紀元前146年に共和政ローマ軍に敗れカルタゴは陥落し、ビュルサの施設も破壊されました。 
 
 
 第三次ポエニ戦争後に破壊されフェニキア時代の遺構はほとんど残っていませんが、丘から軍港を見下ろす斜面にフェニキア時代の貴重な住居群跡が発見されました。
丘の上に立つ最も大きな建築物はサンルイ大聖堂です。これは1884年にフランスにより造営された美しいカトリック教会で、十字軍のチュニス包囲戦で没したフランス王聖ルイ9世に捧げられました。 
住居跡らしい遺跡がありました。これが、ポエニ人の住居だったところです。 
 


<トフェ(タニト神の聖域)>

トフェは、フェニキアの火の神バール・ハモンと、天と豊穣の神タニトを祀っている神聖な場所で、カルタゴ時代の面影を残す数少ない遺跡です。ローマ時代の文献によると、当時カルタゴでは幼児を生け贄として神に捧げる習慣があり、遺跡内に無造作に並ぶ無数の小さな墓からは、幼児の骨が入った骨壺が発見されています。 
 

<古代カルタゴの港(軍港・商業港)>
カルタゴ時代の繁栄を支えた古代カルタゴの港が名残をとどめています。カルタゴがその名を轟かせた海軍と商船が連なっていた港です。港は軍港と商業港とに分かれており、軍港は円形、その南側にある商業港は長方形をなしています。google mapの写真を見るとよくわかります。古代カルタゴ最盛期には、城壁に囲まれた軍港は約200隻の軍船を収容し、地中海にその名を馳せたカルタゴ海軍の本拠として機能していました。
 
軍港  上が軍港、下が商業港(google mapより)
現在では静かな湖のように見えますが、北側が古代カルタゴの軍港で、南側は商業用の船のための港でした。かつてこの軍港は約200隻の軍船を収容できるドックを併設していました。中央に見える小島(現在は陸続き)が円形の港の中央にあるドックのあとです。軍港には中の島が残されており、かつての面影を残しています。 この港が、古代カルタゴ繁栄の鍵を握っていたのです。ここから軍船が出航し、イベリア半島を征服していきました。


(2024.5.15)
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