登呂遺跡

  登呂遺跡は、弥生時代の集落・水田遺跡です。弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落と推定されています。現在遺跡は、登呂公園として整備され、住居などが復元されているほか、遺跡についての資料がある静岡市立登呂博物館が隣接して建てられています。 
東側居住域です。右が祭殿、左に見えるのが住居です。
今から約2000年前の田園風景の再現です。古人が暮らす茅ぶきの「住居」。日本の稲作の始まりを伝える「水田」と、収穫された稲を保管した「高床倉庫」。そして、豊穣の祈りを捧げた「祭殿」。時を超えて、弥生時代の人々の暮らしを想像することができます。
高床倉庫が2つ並んでいます。 
登呂遺跡は、 安倍川 の分流の洪水時に押し流された土砂が堆積し、自然に形成された堤防の上に造られています。 村は、北東から南西の方向に広がる微高地を利用して住居12棟、高床倉庫2棟が建っていて、水田は、その南につくられています。
    
 
高床倉庫  ねずみ返し 
高床倉庫は、弥生時代には、穀物を蓄える倉庫として一般に普及していました。高床倉庫にはねずみ返しが取り付けられていました。ねずみ返しは、ねずみが上ってきても板によってさえぎられ、元に戻るというもので、登呂遺跡において初めて発見されました。
   
登呂遺跡がある静岡平野は、安倍川と藁科川がつくった扇状地です。いまから約2000年前の弥生時代後期、二つの川の流れからできた自然堤防のような小高い土地「微高地」には、多くの集落が存在していました。その一つが登呂遺跡です。 
    
 
遺跡の北側は、住居や倉庫が建てられた「住まいの区域」。そこから、南東に広がる低い土地に「水田の区域」が広がっています。 
西側居住域です。 
遺跡は、戦時中の1943年、軍事工場建設の際発見されました。1947年には日本で初めての総合的な発掘調査が行われ、水田跡や井戸の跡、竪穴式住居・高床式倉庫の遺構が検出されました。 
    
 
  住居内部 
    
 
登呂博物館  芹沢銈介美術館 



<清水次郎長生家>
次郎長生家は、江戸期は渡世人、明治期は社会事業家として活躍した清水次郎長(1820~1893年)が生まれた家です。次郎長が使った道具類、資料などが展示され、居間なども当時のままに保存されています。
    
 


<梅蔭禅寺>(次郎長資料館)
梅蔭禅寺は、「海道一の大親分」として知られた、清水次郎長の墓が残る臨済宗の寺です。境内には、清水次郎長(本名:山本長五郎)の銅像や、大政、小政、お蝶夫人の墓、次郎長資料館もあります。 
    
 
次郎長の銅像  次郎長の写真
侠客としては全国唯一その半生の功労が認められ次郎長の銅像が設置されています。 
    
 次郎長の墓
 
お蝶弁天  次郎長資料館 
資料館には、次郎長ゆかりの品々を展示されています。実際に次郎長が使用した大縄銃や喧嘩頭巾などが展示されていました。


<清水魚市場河岸の市>
河岸の市は、年間100万人以上が来場する“清水港地元の台所”で、清水魚市場の仲卸業者が直接販売する施設です。
 
 
清水魚市場河岸の市  清水港 
清水港は、富士山や三保の松原に囲まれた景観の良さから、日本三大美港といわれています。 歴史は古く、西暦600年代に百済支援のため水軍を率いて出港したという記録が残っています。日本で消費されるマグロの約半分は清水港で揚がり、水揚げ日本一を誇ります。 

<宿泊したホテル>
   
宿泊したホテルから薩埵峠、伊豆半島、駿河湾、富士山が見えました。   

(2021.10.25撮影)
HOME