柳生の里

  のどかな里山の風景が広がる柳生は、武芸で名を馳せた柳生一族ゆかりの剣豪の里です。現在は奈良市の一部ですが、江戸時代は柳生藩と言う独立した地域として、「柳生一族」による支配が行われていました。白壁が美しい家老屋敷や立派な大和棟の家々が建ち、往時の村のようすをしのばせます。 


<旧柳生藩陣屋跡>

かつての「柳生藩」の藩庁が置かれた陣屋の跡です。1642年年に柳生宗矩が3年をかけて建てました。
 
 


<芳徳寺>

芳徳寺は剣豪として知られる柳生家の菩提寺です。徳川将軍家の剣術指南役として活躍した柳生藩主柳生宗矩が1638年に父石舟斎供養のために創建し、以後柳生家代々の菩提寺となりました。
    
 
石舟斉宗厳は上泉信綱に新陰流兵法学び、1565年柳生新陰流を創始しました。道統は宗矩に伝えられ、宗矩はさらに沢庵禅師について禅の修業を積み、剣禅一如の崇高な境地を開きました。宗矩が会得した剣の道は、次に長男十兵衛三厳に伝授され、十兵衛は十年の諸国遍歴を果たしたあと柳生に戻って新陰流の道場を開設しました。  
    
本堂内部 
 
山門  柳生宗矩像 
本堂には、釈迦如来像や宗矩、沢庵和尚の像が安置されています。
左が本堂 
<柳生家墓所>
芳徳寺本堂裏手に、剣と禅に生きた柳生一族の墓所があります。石舟斉や宗矩、十兵衛など柳生一族の墓が80基あまりが整然と並んでいます。 
    
 
    
 
左から宗冬、中央奥が宗矩、その右が十兵衛の墓です。   

<柳生正木坂道場>

柳生十兵衛が延べ約一万人ともいわれる弟子を鍛えたと伝えられる正木坂道場の名を受け継く剣道場です。柳生新陰流の精神「剣禅一如」に通じる剣道と座禅の道場で、昭和40年、当時の住職・橋本定芳氏の尽力で建立されました。もとは興福寺別当一乗条院にあった奈良地方裁判所の屋根部分と柱を移築し、正面入口は京都所司代の玄関口を移設し新調された道場です。 
    
柳生の里を一望できました。 
 
正木坂道場  高台に芳徳寺と道場はあります。

<天石立神社>

天石立神社は本殿を持たず四つの巨石が御神体として崇められています。伝承では、手力雄命が、天岩戸の扉を引き開けた時に、力余って、ここまで飛んで来た岩戸の扉であるという伝説があります。柳生家の修練の場とも呼ばれ、歴代柳生家の崇敬があつかったといわれています。 
    
 
柳生石舟斎が天石立神社で剣術の修行をしたと伝えられ、江戸時代には柳生藩の歴代藩主から崇敬されました。神体岩と拝殿の間に柳生藩主寄進による石灯籠2基があります。
    
 
前立磐(左)と後立磐  きんちゃく岩(左)と前伏磐 
扉形に3つに割れた花崗岩の巨岩「前伏磐」、「前立磐」、「後立磐」の3石の周囲の樹間に注連縄を張り廻らし、これを神体として祀っています。また1953年に南西の崖から落ちてきた丸形の「きんちゃく岩」を加えて祀っています。 
    
 
拝殿   

<一刀石>
一刀石とよばれる巨石があります。天下に名をはせた剣豪・柳生石舟斎宗厳が毎夜天狗を相手に剣術修行をし、ある夜天狗と間違えて切ったと言い伝えられています。
    
 
長さ 8m、幅7m、高さ2mの花崗岩ですが、中央付近で斜め一直線に割れています。 

<旧柳生藩家老屋敷>
江戸時代末期に柳生藩の財政再建に尽力した家老、小山田主鈴の旧邸です。昭和39年、作家・山岡荘八の所有となりましたが、没後、奈良市へ寄贈されました。現在は一般公開され、柳生家にまつわる武具や資料を展示されています。 
見事な石垣が目を引きます。石垣は、江戸時代末期の1841年に築かれたと考えられています。 
    
 
長屋門   
    
 
    
 

(2022.3.7撮影)
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