ならまち

  「ならまち」は世界遺産である元興寺の旧境内を中心とする地域を指します。718年に飛鳥の法興寺(飛鳥寺)が元興寺として平城京に移されました。奈良時代の最盛期には現在のように町並みが広がるような余地はない全てが寺のエリアであったと考えられています。元興寺は平安時代以降は急速な衰退を重ね、寺の範囲が狭くなっていき、寺としての機能が放棄された場所は、次第に「商人のまち」として栄えることになりました。現在の「ならまち」は、江戸時代の末期から明治時代にかけての町家の面影を今に伝えてくれます。
    
 
ならまち格子の家   
ならまち格子の家は、奈良町の伝統的な町家[主屋(三室一列型・通り庭・つし二階)、中庭、離れ、蔵]を再現していて、外だけでなく中からも見学することができます。 
   
 
   高林寺 
高林寺は、元興寺の一院で、藤原豊成の菩提所です。境内には豊成の古墳があります。安土・桃山時代には奈良茶人高坊一族が住んでいました。
    
 
藤岡家住宅   
藤岡家住宅は、17世紀末から18世紀初期のものとみられる商家です。奈良市内に残る町屋の中でも、特に建立年代も古いものです。
    
本殿 
 
御霊神社   
新都である平安京で疫病が流行し、その原因は怨霊であるとした桓武天皇は、旧都である平城京の3つの入り口にそれぞれ、上つ道には早良親王を祀る崇道天皇社、下つ道には他戸親王を祀る他戸御霊社、そして中つ道には井上皇后を祀る井上御霊社を造営しました。井上御霊社がこの御霊神社の始まりです。
    
 
木奥家住宅   
木奥家住宅は、1792年建築の大規模な町家です。主棟は、表通りに面して店を構え、その奥に居住用の建物を別の棟として建てた表屋造として奈良町最古とみられるだけでなく、全国的に見ても古例です。 
   
 
  吉田家住宅主屋 
吉田家住宅主屋は細い格子や長い虫籠窓を配した洗練された意匠の町家です。吉田蚊帳店舗は蚊帳工場、倉庫などに使われてきた歴史ある建物です。 
    
 
奈良町にぎわいの家 
大正6年(1917年)に古物商によって建てられた町家(蔵は江戸期)です。平成27年4月に、当時の暮らしや文化を体感できる施設としてオープンしました。茶室や15帖もある広い座敷、金箔の貼られた仏間ほか、襖絵や装飾など、その空間構成や意匠は見応えがあります。 
    
  中将姫誕生の地
 
奈良町資料館   
奈良町資料館は、旧元興寺敷地内にある館長の自宅を改造し、奈良町の保存を目的として1985年に開館したものです。館長が収集した、江戸時代から明治・大正にかけての看板や生活用品などの民俗資料や、仏像や骨董品などを展示しています。
    
 松山家住宅
 
庚申堂   
    
 奈良町南観光案内所繭
 
静観荘   奈良町南観光案内所竈
  静観荘は、築100年の歴史がある元遊郭の旅館です。木辻町には、古くから遊廓がありました。木辻遊廓は、718年に元興寺を建立する際、工人、人足等の足留め策として木辻の地に「奴婢(ぬひ)」を置いたことが起源で、日本で最も古い遊廓の一つです。
  奈良町南観光案内所は、平成27年に、元々は大正期に建てられた住宅「旧ならまち振興館」を、観光案内所や食堂、カフェを併設した複合施設として開きました。

<元興寺>
元興寺は、平城京遷都に伴い蘇我馬子が飛鳥に建立した法興寺(飛鳥寺)を現在の地に移転した寺院で、奈良時代には東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていました。寺名は移転時に改められ、日本で最初に仏教の教えが起こった地という「元興寺」となりました。寺域は興福寺の南にある猿沢池付近の「ならまち」と呼ばれる大部分が元興寺で、現在「ならまち」と呼ばれる界隈の大半を含む広大な寺院でした。しかし、平安時代中期以降は次第に衰え、特に、1451年の土一揆で火災に遭い、この頃を境に、寺は「極楽院」(現・極楽坊)、五重塔を中心とする「観音堂」(現・塔跡)、「小塔院」の3つの寺院に分裂しました。 
    
元興寺極楽坊北門 
 
元興寺極楽坊本堂  元興寺極楽坊禅室
元興寺極楽坊は、現在は、僧坊遺構の極楽堂と禅室を残すのみとなっています。
    
元興寺塔跡本堂 
 
元興寺極楽坊東門  元興寺塔跡鐘楼 
    
 
 元興寺塔跡
元興寺塔跡は、かつて東塔跡があった場所で、塔の高さは推定50m(興福寺五重塔とほぼ同じ)でしたが、1859年に焼失しました。1927年の発掘調査では「金延板」「金塊」「勾玉」「和銅開珎」などが出土していて、これらは建立時に納められた鎮檀具と考えられています。
    
元興寺小塔院地蔵堂
 
元興寺小塔院跡   元興寺小塔院虚空蔵堂
以前、元興寺が大寺院であった時代に、小塔院は、称徳天皇により制作が図られた「百万塔」と呼ばれる小塔を安置していました。しかし、戦乱等による荒廃で消失し、現在は江戸期に建築された虚空蔵堂が不完全な状態で残るのみとなっています。

(2022.1.18撮影)
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