吉野ヶ里遺跡

  吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の遺跡です。佐賀県神埼郡の3つの町村にまたがった日本最大の遺跡です。弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の移り変わりを知ることができます。


<環濠入口>

環濠入口は、吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたと考えられています。
    
 
門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられています。 
    
 
環壕集落の外縁の外壕です。土塁上に柵列を設けられています。 吉野ヶ里歴史公園の入口です。

<南内郭>
吉野ヶ里の2つの中心区域のうち、南側にあるものを南内郭と呼んでいます。壕と柵で厳重に囲まれ、中には物見櫓も設けられています。こうした特別の空間であることから、吉野ヶ里の指導者たちの生活の場であると考えられています。 
南内郭には南の正門、北の脇門があります。正門の両脇には物見櫓がそびえています。
周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっています。 
南内郭は、吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。
    
 
物見櫓の上から兵士が周囲を見張っていました。   
    
 
物見櫓の上に上ることができ、遺跡全体を展望することができました。  
    
 
    
 
となりの倉庫群が見えました。   
    
 
「倉と市」エリアは海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まっています。吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。 

大人(たいじん)の家
南内郭には中央の広場を取り囲むようにたくさんの竪穴住居が建てられています。大人の家は様々な役割を担う支配者層の住まいであったと考えられています。 
    
 
    
 
王の家
    
 
王の家です。  王の妻の家です。 
    
 
  煮炊屋です。 
<北内郭>
北内郭は、吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要で神聖な場所であったと考えられています。当時まつりごとが行われていました。 
真っ直ぐ入ってこられないように鍵形に折れ曲がった構造をしています。 
    
 
主祭殿です。まつりごとを司る最重要施設です。高さ16.5mで復元されています。 
主祭殿では、田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていました。
    
 
当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。  

<北墳丘墓>

吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられています。このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。
このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。中からは14基の甕棺が見つかり、ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が一緒に収められているものもありました。 
   
祠堂 祖先の霊が宿る柱と考えられている立柱  北墳丘墓の入口 
    
 
14基の甕棺が見つかっています。  
   
「北墳丘墓」の内部は展示施設となっています。 
埋葬の手順(展示物より)
   
甕棺の中に死者を埋葬します。 掘った穴を埋め戻します。  死者に祈りを捧げます。 

<甕棺墓列>

甕棺(かめかん)とは北部九州に特有の棺のことです。大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。 
   
 
吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。 

(2020.11.8撮影)
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