当尾の石仏ー石仏の道ー

 当尾は、京都府と奈良県の境にある南山城にあります。ここは平安遷都までは「山背国(やましろのくに)」と書かれ、奈良・平城京が文化の中心であった時代には、まさに山々の背後にあたる場所でした。平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺にいた高僧や修行僧の隠棲の地となり、真の仏教信仰にそそがれた地域でした。また「当尾(とうの)」の地名は、この地に多くの寺院が建立され三重塔・十三重石塔・五輪石塔などの舎利塔が尾根をなしていたことから「塔尾」と呼ばれたことによります。 当尾地区には、多くの石仏や石塔があることで知られています。特に平安時代から修行僧の庵室や行場が設けられていた浄瑠璃寺・岩船寺の界隈に、鎌倉時代後期から室町時代にかけて、行き交う人々のために多くの磨崖仏が造立されました。これらは、道を行き交う人々を優しく見つめてくれる道しるべとしての石仏です。 


<不動明王立像(一願不動)>

ただ一つだけのお願いを、一心にお願いすれば、叶えてくださるという一願不動です。高さ1.2mほどで右手には剣を持ち怒った顔をしています。(母親が子どもを叱るように、愚かな人間を叱っているそうです) 
 
 
一願不動  八帖岩 
一願不動は、岩船寺奥の院にあたる不動磨崖仏です。 
   

<眠り仏>(埋もれ地蔵)
わらい仏の左脇にある地蔵です。半身を土の布団にくるまれて心地よく眠るように見えることから眠り仏と呼ばれています。眠りながらも右手には錫杖を持っています。
 
 

<わらい仏>(阿弥陀三尊磨崖仏)

当尾の代表的な石仏の一つです。蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀仏です。1299年の銘文があり、上部の屋根石が廂となっているので、風蝕の影響も少なく保存状況は良好です。三像は皆、微笑んでいるように穏やかな顔をしているため、わらい仏と呼ばれています。
 
 

<カラスの壺二尊> (阿弥陀・地蔵磨崖仏)
道の分岐点にある巨石の二面に、阿弥陀像と地蔵像が刻まれた珍しい摩崖仏です。南北朝時代の作で1342年の銘文が刻まれています。阿弥陀仏の右には、灯篭が線刻され、火袋の部分を彫り込んで灯明が立てられる珍しい石造です。同じ分岐点の道端にある礎石は、近くの東小田原随願寺のものと伝えられています。岩の中央に15cmほどの穴が掘られた礎石が粉を挽く唐臼に似ているところからカラスの壺と呼ばれるようになりました。 
 
 
   

<一鍬地蔵>

鍬(くわ)で削ったような跡に線刻されています。一鍬で掘抜いたように見えることから一鍬地蔵と呼ばれています。線彫りの等身大の地蔵磨崖仏で、風化がかなり進んではいますが、頭部から二重の放射光を放っています。もとは笠石があったようですが、現在は失われています。鎌倉中期の作です。
 


<水呑み地蔵>

鎌倉時代、赤門と呼ばれた浄瑠璃寺南大門がこのあたりにありました。そのそばにあった地蔵堂に祀られていたのがこの地蔵です。1343年、この南大門から火災が起こり、浄瑠璃寺の多くの建物が焼け、地蔵堂も焼け落ち、中にあった地蔵石仏のみこの地に残りました。水呑み地蔵の傍らからは、今も涸れることなく、いつも水が涌き出ています。江戸時代初期の剣客、荒木又右衛門がここで休み水を飲み、それから水呑み地蔵と呼ばれるようになったとも伝えられるわき水です。
 
 


<藪の中三尊磨崖仏>

薮の中の二つの岩に、右から十一面観音立像、地蔵菩薩立像、阿弥陀如来坐像が彫られているとても、珍しいものです。鎌倉時代1262年作で当尾の在銘石仏では「首切り地蔵」と共に最古の物です。
 
 


<首切地蔵>

鎌倉時代作の阿弥陀石仏です。首のくびれが深いことから、切れて見えるため「首切り地蔵」と呼ばれるようになりました。昔処刑場にあったからともいわれています。 
 
 


<大門石仏群>

大門石仏群は、竹藪の中や細い山道にあった石仏、石塔などを集めて安置しなおしたものです。双体仏や石龕仏、六字名号板碑や五輪板碑などがあり、変化に富んでいます。 
 
 
 
春日神社   

<弥勒磨崖仏(ミロクの辻)>

山際の巨岩に高さ2.5mほどの仏さまが線彫りされています。これは笠置寺本尊の線刻弥勒磨崖仏をかなり忠実に模写したもので、鎌倉時代1274年伊末行作です。
 
 

<その他>

当尾地域とその周辺には広範囲にわたって石仏を見ることができ、道しるべにもなっています。 
 
浄瑠璃寺内の石仏 
 
笠置街道沿いの石仏   浄瑠璃寺内の丁石
丁石は加茂の里から浄瑠璃寺まで1丁(約109m)毎に浄域に近づく際の笠塔婆で、鎌倉時代末期に建てられました。それぞれ上部に梵字が刻まれています。今は浄瑠璃寺参道の笠塔婆を含めわずか 4本しか残っていません。 


(2022.4.4撮影)
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