東山七条
<智積院>

  智積院は真言宗智山派の総本山で,末寺が3000余のあります。その中には,成田山新勝寺,川崎大師平間寺などの大本山があり,檀信徒数は約30万人にのぼります。豊臣秀吉が愛児・鶴松のために創建した祥雲禅寺の寺域と,豊国社の社域であったところを玄宥僧正が家康から土地と建物をもらい受けて再建しました。
  長谷川等伯・久蔵父子の作の「大書院障壁画」25面,「紙本金地著色松に草花図」二曲屏風一隻,「金剛経」などが国宝に指定されています。
 
冠木門 
 
総門   
名勝庭園は利休好みの庭として有名です。山は中国江西省にある名山「廬山」,池は「長江」をモデルにしています。  
 
   
長谷川等伯らがダイナミックに大自然を描き出した「楓図」「桜図」等は国宝に指定されていて収蔵庫にありますが、写真は撮れません。かわりに大書院に複製障壁画が飾られています。
   
明王殿  金堂   大師堂
 

<法住寺>

  法住寺は,平安時代中期に藤原為光によって創設された天台宗の寺です。かつては大きな寺領を誇る「法住寺殿」がありました。法住寺殿は,後白河法皇が御所を作ると共に,自分の死後を守る墓を敷地内に造営したものです。墓に対峙するように蓮華王院(三十三間堂)を造り,御所を守る新日吉神宮・熊野神社を建立し,政務をする政庁までもを含んでいました。
   
     
境内の身代不動明王像は,法住寺合戦の放火のさいに,上皇の身代わりとなったと伝えられています。  

<養源院>

  養源院は,豊臣秀吉の側室・淀殿が,父・浅井長政の追善供養のため,1594年に創建した寺です。一度は焼失しましたが,淀殿の妹で,徳川秀忠の夫人であったお江の方の願いにより,1621年に伏見城の遺構を移築して再興されました。徳川家の菩提所となり,2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られています。本堂の廊下の天井は有名な「血天井」です。1600年に伏見城で自刃した徳川家の家臣の血痕や体のあとが床板に染みこんでいます。また,俵屋宗達が描いた襖絵「松図」や,白象,唐獅子,麒麟を描いた杉戸絵(重要文化財)が展示されています。

     

<三十三間堂>

  三十三間堂は,天台宗の寺,蓮華王院(れんげおういん)本堂の通称です。1164年に,後白河法皇の勅願で平清盛が建立しました。のち焼失しましたが,1266年に再建されました。中央に湛慶(たんけい)作の千手観音坐像,その左右に500体ずつ千手観音立像を安置されています。内陣の柱間が33間あることからの三十三間堂と呼ばれ,通し矢でも有名です。 
 
ここで通し矢が行われます。   
 
 
南大門は秀吉の大仏殿方広寺南門です。

<豊国神社>

 豊国神社は,豊臣秀吉を祀る神社で1880(明治13)年に再興されました。境内には,伏見城遺構の唐門(国宝)などがあります。
 
 


<方広寺>

  方広寺は1586年に豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって大仏建立をこころざし,造営を開始し,1595年にほぼ大仏殿が完成し高さ約18メートルの木製金漆塗座像が安置されますが,翌年大地震のため大仏は大破してしまいました。そして1598年,大仏開眼供養を待たずに秀吉は死去し,その意志を継いで秀頼が大仏復興を命じ再建し,1612年に,ようやく銅造大仏が完成しました。大仏殿は,豊臣家滅亡後も破却されずに残りましたが1798年に,落雷によって焼失してしまいました。
 
国家安康  大仏殿の名残として残っている石垣です。 
大坂の陣の引き金となった「国家安康」の鐘は,日本三大梵鐘の一つです。  

(2014.6.25撮影)
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