紫香楽宮跡

  紫香楽宮は、奈良時代中頃、現在の滋賀県甲賀市信楽町の北部に聖武天皇が造営した都です。紫香楽宮は当初、離宮として造られ始めました。 743年10月に天皇は紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、甲賀寺の建設と大仏造りに着手しました。745年正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に大きな楯と槍が立てられました。紫香楽宮が正式な都となりました。しかし、4月に入り紫香楽宮や甲賀寺周辺の山々でしきりに火災が起こり、続けざまに美濃国で起きた大地震の余震と思われる地震が相次ぎました。これらの情勢不安が重なり、その年の5月には都は奈良(平城京)へと戻されました。紫香楽宮は、このように数年間の間めまぐるしく平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と都が移り替わった時期に、聖武天皇の理想を体現するために造られた都であったのです。
    
 
遺跡域は「紫香楽宮跡」の名称で国の史跡に指定されています。
   
 
内裏野地区は寺院跡と考えられています。主要伽藍として中門・金堂・講堂・僧坊が南から一直線に配され、その東側に塔院が配されています。その他にも経楼・鐘楼・小子坊・食堂などの多くの遺構があります。文献上では、紫香楽宮と並行して総国分寺として造営が計画された甲賀寺跡と考えられています。
   
礎石 
 
講堂跡礎石  金堂跡礎石 
発掘調査により宮町地区に紫香楽の内裏があり、黄瀬・牧地域に広がる各遺跡に役所や寺院、居住ゾーンが分布していたことがわかりました。市街地の規模は、平城京のほぼ半分くらいであろうと推測されています。 
   
 
中門を過ぎると1段高くなっている場所に金堂跡があり、現在は礎石と「紫香楽宮」の祠が祀られています。 
(2019.11.22撮影)
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