津城跡

  津城は、別名安濃津城といい、織田信長の弟・織田信包の居城として知られています。その後、藤堂高虎の居城となり、津城の大改修が行われました。現在では、本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなりましたが、 復興された角櫓の三層の白壁に老松がはえ、苔むす石垣とともに昔を偲ぶことができます。 
 
 
丑寅櫓  藤堂高虎騎馬像 
丑寅櫓は津城本丸の東北隅に位置する櫓です。1958年に復元されました。平面規模五間四方の層塔型三重三階です。他城では天守に相当する高い格式を備えていました。 
   
 
庭園  入徳門 
入徳門は、藩校の講堂の有造館敷地へ入る門で、戦災を免れて今に残る唯一の建物です。
    
 
津城は、永禄年間(1558年 – 1569年)に細野藤光が安濃津城を構えたことに始まります。織田信長の弟である信包が入城し、1580年に5重天守と小天守が完成しました。お市と三姉妹も、完成に伴い伊勢上野城からここ安濃津城に移り、お市が再婚するまでの2年間を過ごしました。以後、津は城下町として発展してきました。本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れたもので、 低湿地ながら防御には堅固な城でした。
   
 
藤堂高虎が四国伊予の今治(愛媛県)から移封し、1611年に大規模な改修を行いました。北側の石塁を高く積み直し、その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました。 また、城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、 伊予町をつくりました。 
    
 
江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城でした。
   
 
明治になっても町はほとんど旧城下町のままでしたが、明治の終わり頃になって外堀が埋められ、 新しい道や町が作られるようになってきました。現在では、本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなりましたが、 三層の角櫓が復興されました。
    
 

(2022.3.8撮影)
HOME