鳥羽城跡

  鳥羽城は、戦国期に織田信長、豊臣秀吉のもとで、水軍を率いて数々の戦功をあげた九鬼嘉隆が、水軍運用を重視して、当時国境であった妙慶川河口の南岸に突き出た小山に鳥羽城を築き、1594年に完成したとされています。 
    
 
鳥羽城は、水軍の城 らしく大手門(水門)が海側に設けられ、四方を海で囲まれた全国的にもまれな特徴をもつ海城でした。 この場所は右下の絵図の三の丸があった場所になります。 
   
 
三の丸広場です。   
 1663年に内藤忠重が入封してから二の丸、三の丸を増設し、 近世城郭として体裁が整ったとされています。
    
九鬼嘉隆像です。 
 
三の丸広場から見た眺望です。真珠島、鳥羽パールタウン、鳥羽水族館が見えました。  
九鬼氏は南北朝の動乱以降、志摩地方に勢力を伸ばしてい た水軍の将でしたが、戦国期に嘉隆が織田信長に仕えるようになりました。 嘉隆は、織田信長が天下統一を目指す過程で、苦心していた長島の一向一 揆や、石山本願寺との戦いにおいて水軍を率いて数々の戦功を挙げました。 なかでも、1578年の大坂湾での第2次木津川口の戦いで、当時としては 異例の大型の鉄甲船6隻を率いて毛利水軍を打ち破り、大坂本願寺の攻略に 大きく貢献し、その功績により伊勢・志摩国のうち3万5千石を賜りました。
   
 
 鷹羽龍年の鳥羽城詩碑 本丸の石垣です。
本丸の石垣は、様々な大きさの石をそのまま積み上げた野面積みで、九鬼嘉隆の時代の工法です。緩やかですが直線的に積み上げられた隅石が見られます。 
    
 
天守跡です。 
本丸には3層の天守閣がそびえていましたが、明治時代のはじめに建物は解体されました。天守の他に本丸御殿が建っていたことが発掘調査により判明しています。
本丸跡から見た鳥羽湾です。奥に見える島が答志島で、九鬼嘉隆の胴像、首塚があります。  
   
石列で円形に囲ってある場所が大井戸跡です。発掘調査で井戸の直径は約2.7mあり、非常に大きな井戸であったことが判明していますが、現在は蓋をして埋め戻されています。

(2021.9.23撮影)
HOME