日野

  滋賀県日野町は、室町時代、蒲生氏の城下町となって大きく変貌を遂げ、歴史の表舞台に登場してきました。町の繁栄の基礎を築いた蒲生氏は400年以上この地を治め、商工業の保護・育成に努力し、鉄砲や鞍などを特産品として生み出してきました。江戸時代に入って、漆器や薬売りの行商から発展した日野の商人は近江商人の基礎を確立し、その中心の町として繁栄、全国各地に商圏を伸ばす近江日野商人として名をとどろかせていきました。

<近江日野商人>

 近江商人とは、江戸時代から明治時代にかけて、近江国に本宅を構え、他国で行商や出店を設けて商いをしていた商人のことをいいます。なかでも、蒲生郡の八幡・日野、神崎郡の五個荘、愛知郡、高島郡からは数多くの商人が現われました。彼らは上方の商品を地方へ持ち下り、地方の物産を仕入れて上方で販売する「持ち下り商い」を基本としました。
  領主蒲生家の国替えで活気をなくした日野で生活の活路を見出すため、行商に出るようになった人々は、近江商人の中にあって、特に「日野商人」と呼ばれるようになりました。
  ほかの近江商人とは異なり、「千両たまれば新しい店を出す」という小型店経営に主流を置き、非常に多くの店を大都市はもちろん、関東一円の地方都市や田舎にまで出したことや、醸造業を営むものが多かったこと、「万病感応丸」と呼ばれる漢方薬の製造販売を行うなどの独自の商いを行っていました。


<日野まちかど感応館(旧正野玄三薬店)>

江戸時代日野椀に代わって行商の有力商品となり、日野商人の発展を導くものに合薬がありました。その創始者が正野玄三です。この合薬を日野商人が全国に持ち歩くうちに効き目が評判となり、地元日野でも薬を製造する人も増え、現在も地場産業として息づいています。日野まちかど感応館は、合薬「万病感応丸」を創製した正野玄三家の旧薬店です。江戸時代末期に建てられた店舗・東蔵は国登録有形文化財となっています。 
日野まちかど感応館(旧正野薬店)には、今もなお「万病感応丸」の大きな看板が掲げられ、日野の薬業や町並みのシンボルとして親しまれています。 
     
館内には薬業の資料展示や日野観光協会の事務所があります。観光案内や特産品の販売、土蔵を改装した喫茶スペースなどもあり、まちなか散策の拠点となっています。 
 
日野まちかど感応館付近は昔ながらの街並みが保存されています。  

<近江日野商人館(旧山中兵右衛門邸)>
近江日野商人館は、静岡県御殿場で造り酒屋を出店して大成功した日野商人の山中兵右衛門の旧宅を資料館にしたものです。典型的な日野商人本宅の特徴を示す建物であり、館内には初期の行商品や道中具、店頭品をはじめ、家訓などが展示され、日野商人の歴史と商いぶりなどがよくわかります 
    
 
江戸時代から滋賀には“八幡表に日野裏”という言葉がありました。近江八幡の商人は玄関に財を注ぎ込み、日野は奥座敷につぎ込むという意味です。その言葉どおりに家の表側は富を誇示するような建て前ではなく厳格さとつつましい生活態度がよく表われています。
座敷から 白砂の広がる枯山水庭園を眺めることができます。
    
 
建物の北側に枯池と白砂・サツキやツツジの配された枯山水庭園があります。 
    
 
広く白砂を引いて鑑賞式の庭園としていて、この邸宅の贅沢さを感じさせます。


<日野の町並み>
日野は、日野商人が生活していた旧家が続く町並みを見ることができます。特に清水町は城下町として発展した日野の裏通りに当り、商人屋敷が静かにたたずみます。板塀や紅殻格子戸、前栽の植込みなどに歴史を感じます。
 
 
 
 
板塀を巡らせた民家が並び、切妻造り、平入りの平屋建てが多くあります。ベンガラ塗りが独特の味わいを出しています。

<日野祭りと曳山>
日野祭は馬見岡綿向神社の春の例大祭で、850年以上の歴史がある県指定無形民俗文化財です。毎年5月2日、3日に行われます。日野町には現在16基の曳山が現存しています。日野祭では、金銀の豪華な刺しゅうを施した見送り幕のある16基の曳山や、時代絵巻のような行列が繰り広げられます。
   
2021年は新型コロナcovid-19流行のため、曳山巡行と神輿行列が中止されてしまい、祭典のみ行われました。収納庫の曳山で太鼓や笛の演奏が行われていました。 
    
 
曳山を収納していました。  曳山が収納されています。 

(2021.5.3撮影)
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