山代温泉

 開湯1300年の山代温泉には、かつては有名な戦国武将も都から湯治に訪れたと言われています。江戸時代の温泉場は、共同浴場を中心として、まちがつくられていました。共同浴場の周りに温泉宿が立ち並び、湯治客は共同浴場に通ったり、ときには自然の中を散策しながら長逗留していました。この共同浴場が「総湯」です。そして、総湯を中心とした周囲の街並みを「湯の曲輪(ゆのがわ)」といい、北陸特有の呼び方となっています。
共同浴場(総湯)を中心とした山代温泉街(湯の曲輪)です。歴史と伝統を感じさせてくれます。 

<古総湯、総湯>
山代温泉には二つの公衆浴場「総湯」と「古総湯」があります。ひとつは「総湯」と呼ばれる、広く新しい、熱交換システムを導入した、加水なしの100%源泉の共同浴場。もうひとつは「古総湯」と呼ばれる、明治時代の総湯を復元し、外観や内装だけでなく「湯あみ」という温泉に浸かって楽しむだけの当時の入浴方法も再現した共同浴場です。
 
 
古総湯  古総湯の入口 
古総湯は、明治時代の総湯を復元したものです。外観や内装だけでなく、入浴しながら温泉の歴史や文化が楽しめます。2階の休憩所や、浴室の床や壁の九谷焼のタイルも当時のまま復元されています。 
 
 
総湯   足湯
総湯は、誰でも気軽に楽しめる共同浴場です。山代温泉の総湯の歴史は江戸時代までさかのぼります。 

<薬王院温泉寺>

薬王院温泉寺は、約1300年前山代温泉の発見者である行基上人が、温泉の守護のために白山の大権現を祀り、薬師如来・日光両菩薩および十二神将を彫刻・安置したのが始まりです。
    
 
山門   
    
 
仁王門   
   
    
樹齢約300年のヤブツバキ 
 
   行基菩薩像
温泉寺の初代住職明覚上人は、古代インドの言葉を研究する学問、悉曇学の第一人者で五十音(あいうえお…)の創始者だと言われています。1093年に明覚が書いた「反音作法」の中に現存する最古の五十音図が表されています。 

<服部神社>

服部神社は、機織の神の天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)を祀る神社とされています。8世紀前半頃、山代温泉の地に機織や裁縫が伝えられたことに由来します。白山神社の御祭神である菊理媛神と山代温泉の守り神山代日子命が合祀されています。
 
 

<魯山人寓居跡 いろは草庵>
魯山人寓居跡いろは草庵は、当時福田大観と名乗っていた北大路魯山人が、山代温泉旅館の刻字看板を彫るために、大正4年の秋から約半年間生活した場所です。
 
 

<山代温泉山下家>
 
部屋から加賀大観音が見えました。 
 
加賀藩主入湯湯壺跡  宿泊したホテル大江戸温泉物語山下家 
ホテルの入り口横に、加賀藩主の湯壺跡があります。加賀藩三代目、前田利常の時に、この場所に藩専用の湯壺が作られ、藩主専用の湯治場となっていました。

(2021.5.11撮影)
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