鞆の浦(とものうら)

 福山市鞆の浦は、瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置し、古くから潮待ちの港として栄え、万葉集にも詠まれています。鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、都市景観100選や美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれています。

<福禅寺 対潮楼>

鞆の浦の 対潮楼(たいちょうろう)は、福禅寺(ふくぜんじ)の本堂に隣接する客殿です。江戸時代に作られたこの座敷からの眺めは素晴らしく、朝鮮通信使の迎賓館として使用されました。 
対潮楼は江戸時代に創建された客殿で、朝鮮通信使の高官の迎賓館としても利用されていました。その高官が「日本で一番美しい景勝地」=『日東第一形勝』と絶賛し、『対潮楼』と名づけられました。外の弁天島がある景色を額縁に見立てる景色が『日東第一景勝』と呼ばれています。赤絨毯から見てみると窓枠を額縁に見立てた見事な景色に思わず感動しました。
    
 
手前の鳥居と塔があるのが弁天島です。対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ,真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。座敷からは,穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ,鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。  
菅茶山が制作した「日東第一形勝」扁額が掲げられていました。瀬戸内海の潮の流れが変わる場所に近かったため、鞆は古くから「潮待ちの港」として栄えました。それにちなんで、「2つの潮の流れが対峙する海に面する館」という意味で「対潮楼」と名付けられたといわれています
    
 
平成いろは丸  対潮楼の扁額  
1867年、坂本龍馬が暗殺される半年前に紀州藩との間で「いろは丸事件」が勃発しました。海援隊が長崎港から大阪に向かっていたところ、鞆の浦沖で紀州藩の明光丸に衝突される事件です。その「いろは丸」 を再現したのが「平成いろは丸 」です。鞆の浦と仙酔島との連絡船として運航しています。
    
  望遠鏡で見た福寿堂 
弁天島には朱塗りの福寿堂が建っています。座敷の奥にはその福寿堂がしっかり見えるように望遠鏡が備え付けてあり、手が届きそうな位置に見ることができました。
    
 
福禅寺本堂   
福禅寺は、平安時代の950年頃に、空也上人によって、「観音堂」として建立されたと伝えられています。その後、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められました。
    
 

<常夜灯>

常夜灯は、灯篭燈(とうろどう)と呼ばれる船の出入りを誘導する江戸時代の灯台です。海中の基礎の上から宝珠まで11mあり、港の常夜灯としては日本一の高さを誇ります。鞆の浦のシンボルで、人気スポットです  
 
 
常夜燈の近くにある大きな蔵が「いろは丸展示館」です。1867年に坂本龍馬率いる海援隊が海難事故を起こして沈没した”いろは丸”の引き揚げ品や、再現された坂本龍馬の隠れ部屋などが展示されています。

<雁木>
潮の干満に関らず船着けできる石階段が雁木です。雁が飛ぶさまに似ていることから「雁木」と呼ばれています。全国でも類のない鞆の浦の雁木は、今では、鞆の浦の代表的な景観として、住民や観光客がゆったり腰を下ろす憩い場となっています。 
現在残っている雁木は、常夜燈前の「浜の大雁木」です。これは、1811年に造られたものです。現在も船着き場として活用されています。
 
 
淀姫神社が見えました。   
かつて日本の大動脈を担っていた瀬戸内海の中央に位置している鞆の浦は、満ち潮と引き潮がぶつかる場所でもあったため、瀬戸内海を横断する船は一度ここで立ち止まり潮の流れが変わるのを待っていました。そしていつしか「潮待ちの港」と呼ばれるようになり、人と物が行き交う寄港地として栄えた歴史を持っています。  

<街並み>

細い路地には300年前の港町がそのままの姿で残され、町を散策しながら当時の雰囲気を感じることができます。特に、常夜燈、波止 、雁木 、焚場、船番所跡といった江戸時代後期から明治にかけて建造された港湾施設5つがまとまって保存されている港は、国内でも鞆の浦だけです。 
    
 

<太田家住宅>

太田家住宅は、瀬戸内海を代表する往時の商家の佇まいを今に伝える、歴史的価値のある建造物群です。主屋や炊事場、保命酒蔵が見事に保存されていて、玄関には杉玉掛けもあり、造り酒屋の構えをよく残しています。これらの建物群は江戸時代中期から後期にかけて、「旧保命酒屋」中村家が拡張・増築していったものですが、明治に入って廻船業を営んでいた太田家に継承され、今日に至っています。 
    
 
保命酒の生まれ故郷は、ここ太田家住宅です。1655年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛。まさに鞆の経済の中心でした。 

<鞆城>

室町幕府最後の将軍足利義昭は、織田信長から都を追放され転々とした後、1576年に拠点を鞆へ移します。鞆城は1576年、織田信長に京都を追われた足利義昭が滞在して幕府再興を画策した地として知られています。当時「鞆要害」と呼ばれたこの地に義昭は毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」を開きました。「関ケ原の戦い」の後、毛利氏に替わり福島正則が備後国を領有すると、正則は鞆要害を大改修して「鞆城」と呼ばれるようになりました。 
 
 
本丸の石垣の一部が保存されていて、隅石垣には様々な刻印が残されています。 
    
 医王寺
鞆城から見た鞆の街と港  
1336年足利尊氏が小松寺 (鞆町後地) で上皇からの命令を受けて挙兵したことから、室町幕府は鞆ではじまったという説もあります。


<鞆の津の商家>

主屋は江戸時代末期の建築、土蔵は明治時代の建築です。主屋内部は通り庭(土間)に面して、店の間、中の間、奥の間が一列に並ぶ古い商家の間取りとなっていて、鞆の典型的な町家として、当時の暮らしを今に伝えています。 
 

(2022.4.26撮影)
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