長浜
長浜は、豊臣秀吉が初めて城持ち大名となって開いた城下町です。江戸時代には大通寺の門前町や北国街道の宿場としても栄え、 現在でもその町並みを活かした黒壁スクエアはガラス工芸を中心としたショップや工房のほか、郷土料理が楽しめるお店などが軒を連ねる人気のスポットです。
| 長浜城 |
| 浅井攻めの功績から浅井の旧領・湖北三郡を与えられた豊臣秀吉は、1574年、琵琶湖に面した今浜(現 長浜)の地に自身初めての城を築きました。これが秀吉の出世城として名高い長浜城です。豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されました。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。内部は歴史博物館として公開されています。 |
| ながはま御坊表参道 |
| ながはま御坊表参道は古くから「御坊さ ん」と呼ばれる大通寺に至る参道です。道路は石畳化され歴史的な景観を作り出していて、まっすぐ進めば大通寺の山門にたどり着きます。石畳の両側には、今も、寺に関するものの店があり、趣深い店もあります。 |
| 大通寺は真宗大谷派(東本願寺)の別院です。正式には無礙智山(むげちざん)大通寺といいますが、一般に「長浜御坊」の名で呼ばれています。湖北門徒に仏法を説き広めるための道場を、旧長浜城内に開いたのが始まりで、そのころは、長浜御堂と呼ばれていました。安土桃山時代末期、京都に東本願寺が建立され、御堂を大通寺とし、その4年後に現在地に移築しました。伏見桃山城の遺構と伝わる本堂や大広間、長浜城の追手門を移築した脇門(薬医門)など、建造物の多くが、国あるいは市の重要文化財です。 |
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| 山門 |
| 大通寺の山門は高さ18メートルもあり、長浜の街の中でもとても存在感があります。重層になっているので、迫力があり堂々とした印象を与えます。総ケヤキ造りの二層の山門は、33年の歳月をかけて1841年に完成しました。東本願寺の山門を模して造られたといい、龍や大波が今にも迫り来るような躍動感に満ちた彫刻は必見です。 |
| 本堂 |
| 本堂や大広間は、伏見城の遺構と伝わる重要文化財で、絢爛豪華な桃山文化を随所に垣間見られます。本堂は、もとは伏見城の殿舎です。かつては秀吉が朝鮮侵略に先立って軍議をしたところですが、大通寺に移され本堂となり、現在は国の重要文化財に指定されています。 |
| 含山軒庭園 |
| 含山軒庭園は、伊吹山を借景として鑑賞式枯山水です。含山の名はこれに由来しています。前方に盛砂を敷き、中ほどに亀島を配して、伊吹山から枯滝に水が注いで見えるよう設計されています。 |
| かつて北陸と京都を結ぶ重要な街道として栄えた北国街道には、現在でも古い商家や町家が立ち並び、タイムスリップしたような気分を味わえます。 |
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| 北国街道沿いに続く風情ある街並みは、江戸時代の面影を色濃く残す歴史的な観光スポットです。北国街道は長浜の歴史と文化を肌で感じられる、魅力的なエリアです。 |
| 街道沿いには今も、港町の風情を残す舟板塀や紅殻格子(べんがらごうし)、虫籠(むしこ)窓の家々や白い土蔵を持つ老舗の商家、道中安全を願った常夜燈などが建ち並び、昔の面影を色濃くとどめています。 |
| 長浜大手門通り商店街は、歴史とモダンが交錯する魅力的な場所です。観光客に人気の黒壁スクエアやオルゴール館などが並んでいます。アーケードがあるため、天候に左右されず、どの季節でも快適に散策を楽しむことができます。 |
| 黒壁硝子館 | 大手門通り商店街 |
| 北国街道と、長浜城から東に延びる大手門通りとの交差点は、江戸時代に高札が立ち、現在でも「札の辻」と呼ばれています。古くから長浜の中心だったこの辻に、明治33年(1900)第百三十国立銀行長浜支店(6年後に明治銀行となる)が建てられ、壁が黒塗りだったことから「黒壁銀行」の愛称で親しまれました。和洋折衷の重厚な建物は、その後さまざまな変遷を遂げ、平成元年(1989)、「黒壁一號館・黒壁ガラス館」としてオープンしました。 |
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| 曳山博物館 | 大手橋 |
| 曳山博物館は、長浜曳山まつりの歴史・文化が分かる博物館です。金工彫刻や、木彫り、漆塗など日本の伝統工芸の粋を集めた曳山まつりは、「動く美術館」と呼ばれるほど豪華絢爛です。館内には、曳山と呼ばれる舞台村の山車を常時4基ずつ展示します。最新技術を駆使した迫力あるスクリーンでは、華やかで迫力ある映像が映し出され、臨場感あふれる祭の雰囲気が堪能 できます。 |
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| 文泉堂 | 文泉堂内 |
| 文泉堂は江戸時代後期に「銭作」という屋号の両替商としてスタートしました。脇の札には《天保9年(1838)井伊豊前守(=10代彦根藩主・井伊直幸の子の井伊直容)、銭作の桟敷で曳山祭りを見学する。》と残るなど、長浜の曳山まつりを鑑賞に訪れた井伊家を迎えるクラスの商家でした。当時の初代・吉田作平は長浜町長にも就任し、近代〜昭和にかけて徐々に家業も移ろい、新聞配達所・文具店を経て町の本屋を営むようになりました。その過程で一時失われたのが「桟敷席」です。しかし現代になり先代の当主が古写真や伝承から桟敷を復元しました。その桟敷とともに1998年(平成10年)にリニューアルしたのが今の文泉堂です。 |
| 文泉堂庭園 |
| 文泉堂は、元は江戸時代後期に創業した商家で、明治時代以前に作庭された近代町家の庭園が残ります。 長浜市の保存指定樹木にもなっている梅の木は樹齢400年とも言われる古木で、狩野派の画家・岸駒が銭作に宿泊した際の礼にこの梅を描いた襖絵も残っています。 |
| 長浜豊国神社は安土桃山時代秀吉の没後に長浜の町民がその遺徳を偲んで建立しましたが、大坂夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は神社を取り壊すよう命じました。町民は、一時、祭神を町年寄の家へ移し、八幡宮の古堂を移築して、商売の神様である恵比須神を前立に、奥殿に秀吉像をひそかに祀り、長い江戸時代を過ごしました。そして、明治31年(1898)の秀吉300回忌に社殿を造営して現在の社容を整えました。 多くの豊国分社が廃絶したなかで、長浜の豊国神社が四百年間、連綿と守り伝えられてきたのは、町衆の秀吉に寄せる想いの発露です |
| 長浜豊国神社の歴史は、長浜の町衆が豊太閤を慕い、崇めてきた歴史です。 |
| 出世稲荷神社 | |
| 本社 | 虎石 |
| 出世稲荷神社の横に秀吉ゆかりの虎石があります。長浜城の庭園造営の際、加藤清正が寄進した石を秀吉は見事だと大変気に入りました。秀吉亡きあと長浜城が廃城となり、石は「長浜の御坊さん」こと大通寺に移されましたが、毎夜虎が吠えるように「いのうー、いのうー」と泣き叫んだため、豊国神社へ戻したところ、鎮まったという逸話が語り継がれています。 |