桶狭間

桶狭間の戦いは、1560年5月19日、約2万5千人の大軍を率いた駿河・遠江・三河の領主 今川義元公に対し、当時尾張の領主でしかなかった織田信長公が、その10分の1程といわれる兵力で奇襲をかけ討ち取った戦いで有名です。その舞台になったのが桶狭間です。
桶狭間の決戦場については、名古屋市側の説によると緑区にある「おけはざま山」に、豊明市側の説では現在の「高徳院の敷地内」に今川義元の本陣があったとされています。どちらの説が正しいのかは現在も定かではありません。 

<名古屋市説>

桶狭間古戦場公園

桶狭間の戦いの中心地であり、おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地と言われています。地元では、田楽坪とも呼び、今は桶狭間古戦場公園として、整備されました。園内には、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑、合戦の解説板などあります。
    
 
中央には織田信長と今川義元の銅像があります。 合戦当時の地形、城、砦をジオラマ化しています。 
    
 
義元公墓(今川義元の墓碑)と駿公墓碣(石碑) 今川義元が馬をつないだねずの木 

おけはざま山
おけはざま山は今川義元の本陣があった場所です。本陣は先陣隊がいる巻山、幕山、高根山が一望できる西側中腹に作られていました。織田信長が釜ヶ谷から突撃したのは、このおけはざま山の本陣であり、桶狭間の戦いの主戦場となりました。そして、義元は古戦場公園辺りまで攻め込まれ、ついに討ち取られました。 

   
義元の本陣があったとされる場所 当時は先陣隊と大高、鳴海方面が見渡せました。 
瀬名氏俊陣地跡
今川義元の身内でもある家臣瀬名氏俊が、先発隊としておけはざま山に本陣を設営するため5月17日に着陣した所です。瀬名氏俊は、桶狭間神明社へ戦勝を祈願し、戦評の松の下で軍議を開き、そして無事本陣設営を終えて大高城に向かいました。そのため桶狭間での戦死はまぬがれました。 
   
    大池と長福寺の森です。 

長福寺
長福寺は、1538年にに、善空南立和尚が創建しました。桶狭間の戦いの後、信長は、境内で義元やその武将の首検証をしたと言われています。今川義元の供養寺として知られています。 
    
 
本堂  今川義元と松井宗信の木像
    
 
林阿弥がこの場所で今川義元の首検証を命ぜられました。 供養杉です。 
    
 
弁天池です。桶狭間の戦いで血のついた刀が濯がれたと言われています。 

桶狭間神明社
 桶狭間村は南北朝時代の1341年頃に南朝の落人がここまで逃れてきて隠れ住んだことが始まりと伝わっています。これらの人々によって桶狭間神明社は奉祀されたと考えられています。桶狭間の戦いにおいて、本陣設営を終えた瀬名氏俊は配下の200名ほどとともに桶狭間村の氏神だった神明社で戦勝祈願を行い、大高城に入りました。
    
 
拝殿 神楽殿 
   
 
明治に神社合祀の動きを受けて、村内各所に散在していた小祠が集められ、13の境内社として存続しました。

戦評の松
義元の本陣の設営を終えた瀬名氏俊隊は、この大松の下で軍議を開いたといわれ、戦評の松と言います。初代の松は、直径1m以上あるすばらしい松でしたが、1959年の伊勢湾台風で枯れてしまいました。今の松は3代目にあたります。 
    
 

七ツ塚
勝利を収めた織田信長は、全軍を釜ヶ谷あたりに集め、勝どきをあげました。そして、村人に戦死者を葬るよう命じて引き揚げました。村人はこのあたりに七つの穴を掘り埋葬したと伝えられています。 
   


釜ヶ谷
釜ヶ谷は、善照寺砦から中島砦を経て桶狭間に進軍した織田信長軍が、荒れ狂う雷雨の中、おけはざま山に陣取る今川本陣への突撃のチャンスを待っていた所です。信長は空晴れるやすかさず、大雷雨で混乱していた今川本陣へ突撃を命じて、今川義元を打ち取り、大勝利を収めました。桶狭間の戦いで、織田軍を勝利に導いた重要なポイントです。 
 
 
信長坂です。信長軍が一気に駆け上がった所です。 信長坂の上から見た桶狭間 

<豊明市>
  豊明市側説では、現在の高徳院の境内が今川義元公の本陣跡とされています。高徳院向かいにあるのが桶狭間古戦場伝説地となっており、義元公が討ち取られた最後の場所とも言われています。

桶狭間古戦場伝説地

桶狭間古戦場伝説地には、今川義元の墓など桶狭間の戦いにまつわる石碑が多数見られます。 敷地内に点在する「七石表」は、義元をはじめとする今川軍7人の戦死場所を示すといわれ、義元がこの地で織田軍に討ち取られたことを伝えています。
    
 
    
 
今川義元の墓があります。また「七石表」と呼ばれる7つの石碑があり、これは今川義元をはじめ武将が戦死した場所を示したもので、一号碑は今川義元の戦士の場所、二号碑は重臣であった松井宗信戦死の碑、そして三号碑から七号碑までは名前は分かっていませんが義元の側近であっただろう重臣5人が戦死した場所を示したものになります。


高徳院
高徳院は、高野山真言宗の寺院です。階段を上って立派な山門をくぐると広い境内が広がり、今川義元公本陣跡の碑が建っていて、このあたりが桶狭間の戦いの主戦場であったことを物語っています。
    
 
敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っています。 
   
竹林に石仏が数多くあり、供養の趣がありました。 
(2020.5.9、11撮影)
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