大高

大高城跡

大高城は、永正年間(1504年~1521年)花井備中守によって築城されました。 天文・弘治年間(1532年~1558年)には水野忠氏父子の居城でした。 1559年織田方の鳴海城主山口教継が今川方に寝返り大高城を攻略したため、織田信長は丸根砦と鷲津砦を築き大高城と今川方の連絡を遮断しました。大高城は、桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康(徳川家康)が兵糧入れをおこなったことで知られています。桶狭間合戦の後に廃城となりましたが、1616年尾張藩家老志水氏の舘が設けられました。
    
 
   
 
 現在は大高城址公園として整備されており、本丸および二の丸の曲輪跡や空堀などの遺構を見ることができます。  
   
 
本丸跡の一段高い場所に城山八幡社が鎮座しています。  志水忠時の寄進による石灯籠
   
 
本丸跡からは、 鷲津砦や丸根砦が遠望できます。  名古屋駅周辺のビルが見えました。 

丸根砦

桶狭間の合戦」に至るまでに、今川義元は織田氏の家臣であった鳴海城の城主山口教継を調略で織田家から離反させ、さらに山口教継の調略により「大高城」と沓掛城を手に入れています。これにより、今川氏の勢力は三河国を超えて尾張国の大高周辺にまで伸びました。この今川方の脅威に対して信長はいくつかの砦を構築し大高城に圧力をかけました。その中で特に有名なのは、大高城と鳴海城の連絡を遮断するために構築されたとする丸根砦、鷲津砦です。丸根砦は、1559年に織田信長が今川義元の尾張侵攻に備えて、今川方の大高城に対峙し、鷲津砦共々築いたものです。1560年、桶狭間の合戦の時、大高城に無事に兵糧を搬入した松平元康(徳川家康)が、佐久間大学盛重が守る丸根砦を今川勢の先鋒として攻めました。佐久間盛重以下織田勢は奮戦しますが、小勢のため砦は落城し、守将佐久間盛重も討ち死にしました。
    
 
   
砦の規模は、東西36メートル、南北28メートルで、周囲に外堀をめぐらしていました。円形の砦であり、周囲を一周歩くことができます。 
 
 
丸根砦は、小高い丘陵地帯に築かれ、大高川を挟んで目の前に大高城を見ることができたようです。織田勢は、丸根砦から今川勢の大高城と対峙していました。 

鷲津砦
鷲津砦は、1559年、織田信長が今川義元に攻略された大高城に対抗するため、大高城の北東の丘陵上に築いたものです。1560年、桶狭間の戦いのとき、飯尾定宗らが立てこもり、今川方の重臣朝比奈泰朝の軍勢に攻め立てられて全滅したといわれています。 
 
 
鷲津砦は、大高城を頂点として、丸根砦とともに、二等辺三角形の底辺の両端に位置しています。小高い丘陵地帯の北端に鷲津砦、南端に丸根砦が築かれていて、大高川を挟んで目の前に大高城があります。
    
 
現在は鷲津砦公園として整備され遊歩道などが設置されています。 

津島社・天満社

    
 
   
左が疾病・厄難除けの神の津島社、右が学問の神の天満社です。室町時代頃からこの地に鎮座していて、地元では「お天王さま」と呼ばれています。 

海岸寺(善光寺)
大高善光寺(本坊:海岸寺)は、織田信長の命により1574年に珍慶法印により開基、創建されました。 本尊は、聖観世音菩薩、一光三尊阿弥陀如来です。 
 
 
 
 

田中神明社
田中町にあるため田中神明社と言われ、国常立尊を祀っています。毎年九月の例祭では神事の後、神前で子供相撲が奉納されます。昔は各地の神社で相撲が行われていましたが、今でも奉納しているのは、この辺りでは大変珍しく貴重な伝統です。 
     
  ご神木   
春江院
創建は1556年で、大高城主水野大膳が父和泉守の菩提を祀るために、横須賀長源寺の4世 峰庵玄祝を開山として開かれました。 
 
 
 
 
観音堂の右手奥、階段を上った高台に弁財天の祠が祀られていました。   

東昌寺
   
東昌寺は春江院の末寺です。  愚痴聞き延命地蔵 
萬乗醸造
萬乗醸造は名古屋市緑区にある創業1789年の酒造メーカーです。 代々の当主が「九平治」を名乗る久野家の9代目から日本酒を醸しはじめました。主要銘柄である「醸し人九平次」は国内外でも人気が高く、山田錦で造られる純米大吟醸である別誂はパリにあるミシュラン認定の3つ星レストランでも提供されるほどです。
 
 
 
 

辻の秋葉社
三叉路の角にあるということで、辻の秋葉社と呼ばれていいます。秋葉社が建っている場所は、かつて大高の中心でした。江戸時代中期になると、ここに江明市場(よめちば)が立ち、春と秋の年2回、馬市やその他の市が開かれました。村の高札場もここにありました。 
   
 
大高は昔よく火事があったところで、もともと火高という地名だったのを、火の字を嫌って大高にあらためたともいわれています。江戸時代中期は、秋葉社、牛頭天王社、稲荷社、神明社の中から選ぶことが多かったのですが、火除けを願うなら秋葉社、疫病退散なら牛頭天王社、商売繁盛なら稲荷社、五穀豊穣を願うなら神明社といった具合です。

弥陀寺
   
弥陀寺は春江院の末寺ですが、無住となっています。  


神明社(下村講)
 かつて下村一族が氏神を祀っていた社で、今は神明社と称しています。大高歴史の会の説明書きでは、下村九郎兵衛の一族が志摩国小浜から大高に移ってきたのは延元年間(1336-1340年)で、神社はその子孫が寛文元年(1661年)に一族の繁栄を願って神明社を勧請したとあります。
    
 

長寿寺
鷲津砦のすぐ近くに立っていたのが、鷲巣山長祐寺ですが、桶狭間の戦いで、鷲津砦の戦に巻き込まれ、攻め込む今川方によって火がつけられ焼失しました。江戸時代、大高領主志水忠継の母長寿院は黄檗宗への信仰厚く、禅寺の建立を孫忠時に遺命し、1682年伽藍竣工して寺号を長寿寺に改めました。
    
 
本堂  山門 
   
弘法堂   
   
  高蔵坊稲荷
(2020.5.7~8撮影)
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