大府巡り2020-3
座頭泣かせ
大府東高校の横に座頭泣かせの森があります。昔、ツツジが美しく咲き、座頭がツツジを取ろうとして誤って谷底へ落ちて這い上がることができず、悲しみ泣き続けていたので、このあたりを「座頭泣かせ」と呼ぶように成ったという伝説があります。 |
昔は名古屋への道が狭く、難所でした。 |
大府で唯一の芭蕉の句碑がありました。 | 庚申堂です。 | |
黒龍大明神です。 老婆の枕元に大蛇が現れて、お告げがあったので、祠を建て黒龍大明神を祀りました。 |
大倉公園と大府小学校に挟まれた高台にあります。 | 三山禅定の記念碑がありました。 |
行者像 |
神明社(若草町)
戦国時代、尾張国は織田信長の支配下でしたが、駿河の今川義元の勢力が尾張国にも及び、1558年から1561年にかけて3回、織田方の緒川城主・水野信元と今川方の松平元康(後の徳川家康)が石ヶ瀬川を挟んで戦いました。追い詰められた一武将が退路を断たれここで自刃したので、村人が哀れんで塚を建て、弔いました。青木塚と呼んでいました。 |
石ヶ瀬川合戦の地の碑が神明社にありました。 | 神明社隣の新池です。 |
藤井神社は、1559年に築城された追分城(現在の大府北中学校付近)の城主・稲垣淡路守がこの地方を治めていた時、その城内を鎮護する社として創祀したと伝えられています。火災により、1683年にエギ山に再建されました。御祭神は天照大御神と須佐之男命です。 |
境内には、山之神社、弁財天社、豊受神社など摂末社が六社あります。 | ||
行者堂 | 役行者 | 幹囲が391cmのクスノキ |
1682年に一ツ屋開祖山中又右衛門がこの地を開拓した際に,見晴らしのよいこの位置に山の神・農耕の神を祀って創建されたといいます。 |
江戸時代には稲荷社と山祇社の2社があり、1849年に合祀しました。石灯籠には1729年の刻銘があります。 |
庚申堂の中に青面金剛童子 | ||
准胝観音像 |
追分城は1559年に稲垣淡路守によって建立され、昭和30年代までは、縦78メートル・横90メートルの土塁が残っていました。古文書によれば、城址の大きさは東西約66メートル、南北約84メートルです。江戸時代の絵図に城の存在は認められ、昭和23年当時の航空写真にも堀に囲まれた方形区画が写っていますが、遺構は確認できていません。 |
城跡は現在の大府北中学校の校門付近にありました。中学校の校門横に説明板があります。 |
立合池のほとりには、立合池西古窯跡群のAとBの2つの古窯跡があります。12世紀末から13世紀初頭の操業と考えられています。山茶碗の碗と小皿などの遺物が発見されています。ガンジ山古窯群も同じ時期のもので、窯体3基が検出され、碗と皿などの遺物が発見されています。 |