西尾2
旧糟谷邸
旧糟谷邸(きゅうかすやてい)は江戸時代の豪農・豪商である糟谷縫右衛門家の屋敷です。糟谷家は江戸時代を通してこの地方の大地主として、また三河木綿の江戸送り総問屋として栄えました。、金融業、肥料、日用雑貨の卸小売でも財をなしました。この地は江戸時代には大河内松平家大多喜藩の所領でしたが、糟谷家は代々その御用達頭取として名字帯刀を許されていました。 |
現在は約4500平米の敷地内に木造二階建主屋、長屋門、土蔵、屋敷神祠の計5棟、約750平方メートルが立ち並んでいます。主屋と長屋門、土蔵2棟、屋敷神が県指定文化財となっています。 |
糟谷家は代々縫右衛門を名乗り、吉良の大地主として、また三河木綿問屋豪商・豪農として栄えました。 |
土間から見ると突き当たりに仏壇が見えました。 | ||
富裕階層の生活ぶりをうかがうことができる貴重な屋敷です。 | 仏間 | |
土蔵の御文庫です。 | 肥料販売所です。 | |
太い梁が使われていました。 | 次の間です。 | |
庭園が数カ所あります。 | ||
茶会の控え室である寄付です。 | 茶室です。 | |
表千家久田流の茶室・庭園、小牧陣屋から移築されたといわれる長屋門です。 |
尾﨑士郎記念館
尾﨑士郎記念館は、長編小説『人生劇場』で一世を風靡した作家尾﨑士郎の事績をしのび、平成14年に開館した記念館です。尾﨑士郎は明治31年に西尾市吉良町に生まれました。 |
尾﨑士郎の直筆原稿、書簡、著書、学校資料、人生劇場映画資料、芝居等の台本、扁額、愛用品等の遺品が順次公開されています。 |
尾﨑士郎が晩年を過ごした書斎が東京都大田区から移築されています。 |
浸水対策の高井戸です。 |
金蓮寺(こんれんじ)の弥陀堂は源頼朝が三河国守護の安達盛長に命じて建立させた三河七御堂の一つと伝えられています。一間四面堂の流れを汲む鎌倉時代の建築で、愛知県下では最古の木造建築物であり、昭和30年に国宝にされました。 |
国宝・金蓮寺弥陀堂です。桧皮葺の屋根の深い軒と緩やかな曲線が見る位置によって異なる表情を見せる優美な姿の堂です。 |
木造の阿弥陀如来と両脇の侍像です。阿弥陀如来の向かって右手に観音菩薩、左手に勢至菩薩を祀っています。 |
1339年に、当地に新田を開いた足利尊氏によって鎮守として創建されたと言われる三社の内の二之宮にあたります。足利尊氏も狂言を鑑賞したと伝えられている屋外舞台跡が残っています。 |
饗庭神社からさらに山頂方面に進むと、白山公園が整備されています。この公園の一部に、白山神社と八幡社が鎮座しています。饗庭氏がこの地を納めていた時の所縁の神社です。 |
白山公園の展望台から眼下に広がる吉良の町や三河湾の眺めは見事です。 |
三河湾が一望でき、渥美半島、知多半島、佐久島がよく見えました。 | ||
白山公園です。 | 八幡社です。 | |
陣地壕跡がありました。 | 白山神社です。 |
山頂にある白山神社は、1383年に加賀の国(石川県)から妙鶴丸が管領職として吉良の地に移り、加賀の白山宮を祭ったことが始まりと言われています。 |
西福寺(さいふくじ)は、1254年に北条時頼により、天台宗の寺院として創建されました。 |
西福寺の鐘楼は、もとは徳川家光によって再建された伊賀八幡宮の鐘楼で、1636年頃のものとされています。明治初期には神仏分離令が施行され、伊賀八幡宮から仏教色の強い鐘楼が排除されることになったため、西福寺に移築されました。 |
正法寺古墳は、墳長約94mの西三河最大の前方後円墳です。平成13・14年に墳丘の発掘調査が行われ、三段築成の墳丘に葺石が施されることが明らかになりました。埴輪および墳丘形態から中期前葉(4世紀後葉から5世紀初頭)の古墳と考えられています。 |
古墳周辺は公園として整備されていて、保存状態の良好な墳丘を観察することができます。 |
後円部から前方部を見ました。 |
古墳からは三河湾の島々や遠く志摩半島の山並みを望むことができ、被葬者は伊勢湾の海上交通をつかさどった人物だと考えられています。 |
正法寺 | ||
白山神社 |
平成18年6月にハワイ州の観光局から許諾を得て、宮崎海水浴場と恵比寿海水浴場を合わせて「吉良ワイキキビーチ」と呼ぶようになりました。 水質良好で景観も優れているとして、平成13年に環境省選定の「日本の水浴場88選」にも選ばれました。 |
白い砂浜と南国情緒を感じさせるヤシの木に囲まれてリゾート気分を味わうことができます。目の前に広がる三河湾、梶島や遠くに渥美半島も見えました。 |