沓掛城
沓掛城は「桶狭間の戦い」の前夜に今川義元が宿泊した城として知られています。「桶狭間の戦い」後には織田信長より勲功一番と称された簗田政綱の居城となりました。現在は沓掛城址公園として整備されており、本丸、空堀、諏訪曲輪などの遺構がきれいな状態で残っています。東西288m、南北234mと当時としては、比較的規模の大きな城で、総堀に囲まれる形式だったといわれています。
大手門跡 | ||
諏訪曲輪跡 | ||
本丸跡 | 井戸跡 | |
二の丸跡 | 侍屋敷跡 | |
空堀跡です。本丸の周囲には幅8mほどもある広い空堀が巡り、南の大手には土橋が残っています。 |
沓掛城址公園案内図です。 | 桶狭間の戦いの進軍ルートです。 |
慈光寺は沓掛城祉のすぐ隣にある寺院で、昔はここに侍屋敷がありました。桶狭間の戦いの戦没者を弔うために造ったお堂がこの寺の起源とされています。 |
二村山(ふたむらやま)は、豊明市にある標高71.8メートルの山です。豊明市の最高地点であり、眼下に広がる濃尾平野や岡崎平野のかなたに猿投山や伊吹山地、御嶽山までを一望にしうる景観は名勝として古くから知られています。歌枕ともなり、平安時代の頃から数多くの歌や紀行文の題材にされてきました。そのため山頂から山麓にかけて、その長く風趣な歴史を物語る歌碑・石碑がいくつか残されています。 |
登山口は数か所あり、名古屋市側からも豊明市側からも登ることができます。 | ||
二村山山頂です。豊明市の最高地点で、標高71.8メートルです。 | 三角点 |
二村山切られ地蔵尊です。 胴体が斜めに切ったように上半身と下半身が別になっています。下半身の背面に「古来仏依会大破建之 延宝七己(1679)と刻んであり、身代わり地蔵である二村山峠地蔵尊の伝説を元に建立されたましが、落雷により折れたといわれています。そのため、「身代わり地蔵の身代わり」 とも呼ばれています。 |
山頂の展望台からは、360°のパノラマが広がります。豊明市全域を見渡せ、晴れていれば猿投山や伊吹山地、御嶽山までを一望でき、古くから景勝地として知られています。 |
岳輅の句碑 |
峠地蔵堂 | ||
3体のうち、向かって左の頭部のない地蔵尊が二村山峠地蔵尊です。背面に「大同二」(807年)の刻銘があります。旅人が盗賊熊坂長範に襲われたとき、身替りとなって肩から上が欠落したという伝説があります。 |
キリの花がきれいに咲いていました。 |
源頼朝は、鎌倉に幕府を開き、各地と鎌倉を結び、往来する人々のために道路を整備しました。鎌倉街道は、幕府のある鎌倉と地方とを結んだ幹線道路の総称です。鎌倉幕府の御家人が 「いざ鎌倉」 の際、素早く馳せ参じるために整備された道路で、古代の官道や地方道を繋いで建設されました。 |
二村山を通る鎌倉街道は、平安時代から鎌倉・室町時代を経て、1601年家康が東海道を制定し伝馬の制度を定めるまで京と鎌倉とを結ぶ主要幹線道路でした。 二村山は歌枕として詠まれた景勝地で、街道を行き交う人々を魅了し、源頼朝をはじめ、北条泰時、飛鳥井雅経、西行などすぐれた歌人の詠んだ和歌が多く残されています。 |
源頼朝の歌碑がありました。頼朝が1190年に上洛するときにここを通りました。 |