笠寺
笠寺は、旧東海道の鳴海宿(緑区)と宮宿(熱田区)の間にあり、笠寺観音の門前町です。下町情緒豊かな南区の中央部に位置します。笠寺観音周辺は今も商店街として賑わい、往時の面影を残しています。また、笠寺一里塚や見晴台遺跡、高射砲陣地跡など、古代から近代まで様々な時代の遺跡が残っています。
<見晴台遺跡>
見晴台遺跡は、南区見晴町の笠寺公園周辺にひろがる、旧石器時代から室町時代にかけての遺跡です。残されている遺構の時期は、弥生時代中期から古墳時代初頭、おおよそ2000年前から1700年前が中心になります。 |
見晴台遺跡は、笠寺台地の東縁(標高10〜15メートル)に位置しています。最古で約2万年前の旧石器時代の石器が出土しているほか、縄文時代の物とされる土器片なども出土しています。 |
発掘された環濠の断面が保存されています。 |
公園整備に伴い、1964年に調査が行われた結果、弥生時代に作られた東西約120メートル、南北約200メートル、幅・深さとも約4メートルの環濠に囲まれた集落跡が検出されました。環濠の北西側部分には濠が複数あることから、合戦を想定しての防御体制の強化とも推測されています。 |
見晴台遺跡は、名古屋市南区の高台に残る旧石器時代からの遺跡です。特に弥生時代から古墳時代にかけて200棟以上の住居跡が発掘されました。他にも弥生時代の大規模な濠や土塁も発見されています。 |
高射砲の砲台跡 |
戦時中は空襲の多かった名古屋南部に位置していたため、笠寺高射砲陣地として高射砲等が設置されていました。その台座が2つ残っています。1942年に高射砲陣地が構築され、一個中隊が配備されました。1944年には高射砲大隊本部もここに置かれました。 |
住居跡観察舎は、弥生時代の住居跡や竪穴式住居を復元した施設です。 |
住居跡観察舎 | 竪穴式住居の復元 |
名古屋市見晴台考古資料館は、見晴台遺跡に関する資料の収集、調査研究、展示を行う施設です。 |
見晴台遺跡で見つかっている遺物で最古のものは2万年前の角錐状石器です。 |
見晴台を含めた市内の遺跡からの出土品などを展示しています。 | 八八式野戦高射砲です。 |
笠寺観音は尾張四観音の一つです。元は小松寺といって、733年に僧禅光が開いて十一面観音を安置しました。その後荒廃し、930年に藤原兼平がこの地に復興し笠覆寺と名付けました。笠寺観音は通称です。 |
仁王門と放生池 | 本堂 (再整備中でした。) |
六の市 | ||
西門 | 六地蔵堂 |
境内では、毎月6日・16日・26日に「六の市」が開かれています。 |
徳川家康人質交換の地碑 | ||
江戸時代初期建立の多宝塔 | 玉照姫と兼平公 |
笠覆寺というのは「笠で覆う寺」という意味です。その昔、ある女性が観音像にお祈りを続けていました。ある日、雨ざらしでびしょ濡れになっていた観音様を見た女性は、思わず自分がかぶっていた笠をかぶせます。ちょうどそこに藤原兼平が通りかかりました。見初められた女性は京に召され、兼平公と結ばれて「玉照姫」と呼ばれるようになりました。のちに夫婦は出会いのきっかけとなった観音様に感謝してお堂を建て、笠をかぶせた観音さまをお祀りしました。これが笠で覆う寺、すなわち笠覆寺という名がついたという伝説があります。 |
泉増院は、笠覆寺(笠寺観音)の塔頭寺院の一つです。ここには玉照姫の像が祀られています。 |
山門の入口には「玉照姫」の奉納提灯が連なっていました。 |
生まれ歳守り本尊 |
生まれ歳守り本尊が祀られていました。人は生まれ年の干支により、守護してくれる仏が定まっていて、その守護してくれる仏を「守り本尊」と呼ぶそうです。 |
不動堂 | 本堂 |
玉照姫の像は不動堂に祀られてます。本堂には大日如来様が祀られてます。 |