刈谷の東海道

江戸時代の5街道で最も賑わっていた東海道は、江戸の日本橋から京三条大橋までの125里(491km)の街道です。刈谷市内は池鯉鮒宿と鳴海宿の間にあたり、休憩のための立場として数件の茶屋が賑わい、湯茶・酒・食事などが旅客に提供されていました。現在でも今川の町並みに当時の面影が残っています。 
 旧東海道の面影が残っていて趣があります。
 
 


お富士松

桶狭間の合戦のあと、今川勢が、東海道を西へ急ぐ旅人を織田信長のまわし者として切り殺してしまいました。これを見た村人は旅人を丁寧に葬り、そこに1本の松を植えました。この松が富士松という地名の由来です。
    
 
名鉄富士松駅の駅前にお富士松はあります。 


乗蓮寺

真宗大谷派の寺院で、江戸時代前期の草創とされています。境内にあるシイは、樹齢850年と推定され、昭和33年には市天然記念物に指定されました。 
    
 
    
 
樹齢850年のシイです。幹の根本に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられています。昭和34年の伊勢湾台風で大部分に損害を受けましたが、現在は樹勢を回復し、実もつき始めています。 

馬頭観音
顔の上に馬の頭をいただき、怒りの相をしている観音を馬頭観音と言います。馬の守り神としての江戸時代から広く信仰されてきました。参勤交代のとき、道中で病に倒れた馬を供養するために建てられたものと言われています。 
 

乗願寺
1587年の創建で、真宗大谷派の寺院です。刈谷城主三浦明喬・土井利信の位牌が祀られています。
 
 

愛宕山

昔一人の若者が、ここに生えていた大きなエノキの根を切り取ったところ、にわかに歯が痛み苦しんだが、家の仏壇に祈ったところ痛みがなくなりました。そこで、京都から愛宕山神社の分神を移してここに祀ったので、村人はここを愛宕山と呼ぶようになりました。 
    
 

いもかわうどん
今川町は、昔、いも川といい、名産に平打ちのうどんがありました。産地名から「いもかわうどん」と呼ばれていましたが、紐のような形状だったので、いつか「ひもかわうどん」と呼ばれるようになりました。名古屋の代表的な麺である「きしめん」の起源とも言われています。
 
 
   一ツ木弘法道標
一ツ木弘法道標は、一ツ木弘法の縁日には、この道を通って西福寺へお参りに行く列が絶えなかったため、この道を弘法道呼ぶようになり、「一ツ木こうほうみち」の道標が建てられたのです。 

洞隣寺
曹洞宗の寺で、1580年の開山といわれ、開基は刈谷城主水野忠重とされます。本堂の隣に地蔵堂・行者堂・秋葉堂が並んでいます。寺の入り口にある常夜灯は、1796年の年号が刻まれています。 
    
 
    
 
中津藩士の墓、めったいくやしいの墓
洞隣寺の墓所には、何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)中津藩士の墓があります。またその隣には刈谷の昔話ではよく聞かれるめったいくやしいの墓があります。  
    
 
めったいくやしいの墓の由来(案内板より)
昔、洞隣寺の下働きに容貌は悪かったが気立てのよいよく働く娘がいた。あるとき高津波村の医王寺へ移ったところ、この寺の住職に一目ぼれした。しかし青年僧は仏法修行の身であり娘には見向きもせず寄せ付けなかった。娘は片想いのため食も進まずついに憤死してしまった。洞隣寺の和尚はこれを聞いて亡骸を引き取って葬ったが、この墓石から青い火玉が浮かび上がり油の燃えるような音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして火玉は医王寺の方へ飛んで行ったといわれる。女の情炎の恐ろしさが語り継がれている。
中津藩士の墓の由来(案内板より)
寛政2年(1742)豊前国(大分県)中津藩家臣の牟礼清五郎と渡辺友五郎が今岡村を通りがかった際、遊女の話で口論となり、斬りあった末にふたりとも亡くなった。ふたりの亡骸は洞隣寺に葬られたが、二基の墓は互いから離れるように傾き、何度直しても傾いてしまった。村人が改めて手厚く葬ってからは傾かなくなったとされる。 
十王堂
十王といってあの世で亡くなった人を裁く10人の王をまつる堂で、各地にあった石地蔵が集められています。 
    
 
(2020.5.19撮影)
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