真弓山(足助城)&飯盛山
真弓山は、愛知県豊田市に位置する標高301mの山です。真弓山の山頂を本丸とした連郭式の山城である真弓山城がありました。真弓山城は、鎌倉時代に足助氏が居城したといわれ、発掘調査の結果、遺構は15世紀以降に鈴木氏によって築城されたもので、平成5年に足助城として復元されました。
飯盛山は、真弓山のとなりにあり、標高254mです。平安時代末期に足助氏初代の足助重長によって飯盛山城が築かれました。
【真弓山】
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聖観世音菩薩の石仏です。 | |
真弓山を目指しました。真弓山の山頂に足助城があります。 |
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「百年草」を出発して真弓山に登りました。 |
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歩いている途中にエビネなどを育てている民家の庭がありました。 | ||
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足助の街が見えました。 | 真弓山入口です。 |
足助城は、発掘調査成果に基づき戦国時代の山城を復元したものです。戦国時代には真弓山城と呼ばれていました。国のふるさと創生基金などを元に、本丸には高櫓と長屋など、西の丸に物見矢倉、南の丸には物見台や厨、また板塀などが復元されています。足助鈴木家の本城であったと考えられています。 |
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足助城に到着しました。 |
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西物見台です。 | |
下から見上げた西物見台です。 | 西物見台の内部です。 |
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城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲いである曲輪がありました。 | ||
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井戸の跡がありました。 | エビネが群生していました。 | |
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マムシソウがありました。 | 西の丸跡です。 |
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南の丸厨跡です。台所や武具の手入れなどの作業を行った場所がありました。 | ||
南物見台です。 | ||
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長屋です。 |
本丸です。真弓山の山頂でもあります。 |
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本丸の居間です。 | 急な階段で2階に上がりました。 | |
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高櫓の2階に上がりました。 | 隠し部屋がありました。 | 発掘調査をもとに復元されました。 |
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高櫓の2階からは四方が見渡せました。 |
足助植物園を歩いて真弓山を下山しました。 | ||
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植物の名前の標識が立てられていました。 | ||
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ジエビネがありました。 | キエビネです。 |
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クマガイソウが咲いていました。 | ||
クマガイソウは絶滅危惧に分類されているため、保護に力を入れています。 |
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香嵐渓は家族連れで賑わっていました。 | 三州足助屋敷 |
香積寺は、足助氏衰亡の後に、その菩提を弔うために居館跡に置かれたものです。 |
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香積寺から飯盛山に登りました。 | ||
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新緑のモミジもきれいでした。 | ||
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花祭りを行っていました。 | 毘沙門天です。 | ここから飯盛山に登りました。 |
平安時代末期には、山頂に足助氏の飯盛山城があり、山頂を3段に削って本丸から三の丸まで城塁が置かれていました。足助氏の後の鈴木氏は、飯盛山城を本城として6つの支城を築き、足助七城と呼ばれていました。 |
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飯盛山山頂を目指しました。 | 鈴木五代の墓です。 | |
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装束塚です。 | ||
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豊栄稲荷です。 | 飯盛山山頂に着きました。 | |
下山途中イノシシから守る柵がありました。 |
足助の町並みは、愛知県で初めての国の重要伝統的建造物群保存地に選定されました。足助を通る現在の国道153号は、江戸時代には伊那街道、明治以降には飯田街道と呼ばれた街道で、中山道の脇往還として庶民の生活にとって重要な道でした。 この街道は三河湾で採れた塩や海の産物を信州や美濃地方へ運び、帰りには山の産物を持ち帰って、尾張や三河方面に送り出していました。重要な交易物であった塩はここで詰め替えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれました。 |
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旅籠玉田屋旅館です。かつての旅籠の面影を残したまま今も営業しています。 |
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1846年の道標です。伊奈街道は塩の道であり、善光寺詣の道でもありました。 | ||
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飯盛山が見えました。 | ||
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馬頭観音がありました。中山道の脇街道として栄えた伊那街道は中馬による潮塩の道でもありました。明治の終わりに馬の背から馬車にかわると、3面8臂の馬頭観音が馬車組合の人々によって建てられました。 |