アルメニア1

  4世紀初、ローマ帝国下、未だに多くのキリスト教徒が迫害を受けていた頃、アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教に定めました。しかし、アルメニアは、アジアやヨーロッパ、中東に囲まれた立地であったことから、多くの国による侵略や破棄を経験しました。歴史は苦難の連続で、ペルシアやオスマントルコなど周辺強国の支配を受け続け、多くのアルメニア人が、世界各地に離散・移住していきました。そのため彼らは強烈な民族意識、民族の伝統に対する誇りを持っています。アルメニアの世界遺産も侵略による文明の破壊、再建築を繰り返してきました。

ハフパト

ハフパトは、ジョージアの首都トビリシから、アルメニアの首都エレバンに、陸路移動する途中にある小さな町アラヴェルディの近くにある村です。サナヒン修道院とハフパト修道院の2つをあわせて世界遺産になっています。また、アラヴェルディは旧ソ連時代の鉱山の町で、鉱山廃墟があります。

<ハフパト修道院>

ハフパト修道院は、サナヒンの修道院とともに、アルメニア人の王朝バグラト朝(886〜1045年)時代に建設されたビザンチン様式の修道院です。ハフパト修道院の聖堂の建設は、966年に始まり、991年に完成しました。もともとハフパット修道院とサナイン修道院は、5~7世紀に栄えた世界遺産ですが、7世紀後半にアラブ人により一度は完全に崩壊されてしまいました。9世紀後半に、再びアルメニアが王国として建国された後に、再建築されたのものが現在のハフパット修道院とサナイン修道院だといわれています。
   
ハフパト修道院は、聖ニシャン聖堂、聖グレゴリウス教会、鐘楼など多くの建築物からなる複合的な宗教施設で、複雑な造りになっています。増改築を繰り返したためでもあり、敵襲に備えた防備のためでもあります。
   
 
     
  主聖堂の聖ニシャン聖堂  
  
ハフパトとは強い壁という意味で、アルメニアの玄武岩が使われた強靱な佇まいです。 
     
教会の中には、大きな十字架が彫られた石碑がいくつも残っていました。それは、「ハチュカル」と言うアルメニア独特の十字架です。アルメニアには、キリスト教以前の宗教で「骨」を表すマークであったために、キリスト教が入って来て以降、アルメニアの十字架は装飾的になったと言うことです。 
   
   
床面には穴がたくさん開いていて、その床の下に本を保管していました。 当時は戦いが多く、多くの書物が焼かれたので、書物を壺に入れ土の中に埋めて守りました。
 
 
ハフパト修道院からの展望です。  

<ハフパトからセバン湖までの車窓>
 
 
山の中に村が点在していました。旧ソ連時代の鉱山跡と思われるものもありました。 
 
 
コーカサスの山々のふもとののどかな風景が広がっていました。 
 
 
(2019.6.19撮影)
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