セルビアその1

  セルビアは、かつてはユーゴスラビア内で中心的役割を果たした共和国でした。1991年スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが次々と独立し、1992年セルビア共和国とモンテネグロ共和国がユーゴスラビア連邦共和国として誕生し、更に、2003年2月「セルビア・モンテネグロ」と称される新連合国家としてスタートしました。そして、2006年モンテネグロが独立し、セルビア共和国となりました。20世紀末の政治的混乱が続きましたが、美しい自然や文化的史跡も数多く残っています。 

【ベオグラード】

セルビアの首都ベオグラードは、ヨーロッパ最古の都市のひとつと言われています、ドナウ川とサヴァ川の合流地点にあるため、交通の要衝として発展し、地形上、戦略的拠点として、古代より現代までの間に140回にわたって戦いの場となりました。ベオグラードは紀元前3世紀にケルト人が築き、ローマ帝国時代に最初の要塞が設けられました。その後、紀元7世紀までローマ人、フン族、ゴート族に侵略され、12世紀から16世紀初めにかけてはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、マジャール人(ハンガリー人)が支配者となりました。1521年にはオスマン帝国が統治、第1次世界大戦中はオーストリアに、第2次世界大戦中はドイツ軍に占領されるなど、目まぐるしい歴史を紡いできました。その中でもコソボ紛争は記憶に新しいところです。 

<聖サヴァ教会>

聖サヴァ教会は、東方正教系の教会としては世界最大の規模を誇るセルビア正教の中心的な教会です。聖サヴァは、中世セルビア王国創始者の「ステファン・ネマニャ」の息子で、セルビア正教会の創立者です。彼の遺体は、セルビア南西部にあるミレシェヴァ修道院に納められていましたが、オスマン朝の支配時代にここベオグラードへ運ばれて、現在、教会が建つ場所で焼かれたと言われています。1935年に建築がスタートしたのですが、残念なことに戦争によって中断されてしまい今だに建築中です。 
 
 
   
教会は外観は、ほぼ完成していますが内部は建造中。  
    
 

<クネズ・ミロシュ通り(空爆通り)>

 コソボ紛争中の1999年の3月24日から6月10日にかけて行われたNATOによるアライド・フォース作戦により、セルビアの首都のベオグラードはNATOによる空爆をうけました。ベオグラード市内には、政府系のビルが多く建ち並ぶクネズ・ミハイロ通りは、別名空爆通りと呼ばれています。NATOによるベオグラード空爆の際に、政府系機関が建ち並んでいたこの通りは空爆の標的となりました。NATOにより空爆されたビルがあるのですが、傷跡が生々しく残っています。
    
 


<花の家(チトーの墓)>

花の家は、旧ユーゴスラビアのチトー大統領が眠っている霊廟です。今でも献花に訪れる観光客が後を絶ちません。中に入るとガラス張りの屋根と植えられた植物でとても神聖な雰囲気になっています。その奥にチトーのお墓が置かれています。 
    
 
    
 
チトー元大統領の墓です。  
   
友好国からの贈り物や写真、民族衣装など多岐にわたって展示されていました。  
     

<ベオグラード要塞 (カレメグダン城址公園)>

ベオグラード要塞は、紀元前4世紀には造られ始めて、現在の要塞は18世紀以降に造られたものです。ドナゥ川とサヴァ川が合流している要衝の地である丘の上に造られています。ベオグラード要塞は古代より現代までの間に140回にわたって戦いの場となりました。 
    
 
スタンボル門   勝利者の像 
    
 
   
軍事博物館の横には装甲車や大砲などが展示されています。  
   
  ドナゥ川とサヴァ川の合流地点です。

<クネズ・ミハイロ通り>
ベオグラードの中心テラジェから石畳の遊歩道クネズ・ミハイロ通りがカレメグダン公園まで続いています。この通りはショッピング通りにもなっていて、衣料雑貨店やブランドショップ、ブティック、カフェ、レストランなどが並んでいて多くの人で賑わっています。 
    
 

<ボスニア・ヘルツェゴビナからベオグラードへ移動途中の風景>
    
 
ボスニア・ヘルツェゴビナから国境を越えてセルビアに入国しました。   
    
 
途中、放牧風景、城塞や教会、赤い屋根の街などが見られました。  
     
セルビアの国旗   ジプシーがお金をねだりに来ました。
(2017.10.30、31撮影)