ボスニア・ヘルツェゴビナその1
ボスニア・ヘルツェゴビナは、北部をボスニア地方、南部をヘルツェゴヴィナ地方と呼び、これを合わせたものが国名となっています。ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴ連邦を構成した共和国の一つで、1991年当時、約430万人の人口の民族構成はボシュニャク系(ムスリム)44%、セルビア系(正教)33%、クロアチア系(カトリック)17%でした。旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中、1992年4月、同共和国の独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となりました。1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息し、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」及びセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という2つの主体(エンティティ)から構成される一つの国家とされました。それぞれのエンティティが独自の大統領、政府を有するなど、高度に分権化されています。
【サラエボ】
サラエボは、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都です。サラエボは、①第1次世界大戦の 引き金になったオーストリア皇太子の暗殺事件(1914年)、②冬季オリンピック開催
地(1984年)、③旧ユーゴスラビア連邦解体時の民族紛争(1992年)など、明暗の分かれる出来事がありました。 サラエボは、ビザンツ帝国、オスマン=トルコ帝国、そしてオーストリア=ハンガリー帝国と支配者がキリスト教、イスラム教入り乱れて統治した文明の十字路で、世界にも稀なモザイク都市となって歴史を今に伝えています。 現在でもイスラム教徒の住民が多く(ボシュニャク)、基本的にキリスト教圏であるヨーロッパにあっては異色の旅行情緒を満喫できる町です。 |
<バシチャルシァ地区>
旧市街のバシチャルシァの広場には、オスマン式建築物である木でできた水飲み場があります。 | ||
バシチャルシァは職人街でもあり、民芸品なども売っていて大勢の人で賑わっています。 | ||
セビリ(水飲み場) | ブルサ・ベジスタン(旧絹取引所) | |
1543年に建設された屋根つきのバザールである ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール |
ミリャツカ川を挟んでセルビア人がボシュニャク人(モスリム)の対立がありました。 | ||
1531年に建てられたオスマン建築のガジ・フスレヴ=ベグ・モスク |
<ラテン橋>
ラテン橋は、1914年6月28日、サラエボを視察中のオーストリア皇太子が夫人とともにセルビア人青年によって暗殺され、世界は第一次世界大戦へと突き進むことになったというサラエボ事件の場所です。 |
サラエボ事件の場所にサラエボ博物館が建っています。 | ||
サラエボ事件の写真が展示されています。 |
1993年、ボスニア紛争が激化する中、サラエボがセルビア人勢力に包囲された「サラエボ包囲」の際に、ボスニア軍により掘られたトンネルです。そのトンネルの一部が残されており、博物館として展示されています。サラエボ空港向こうのサラエボ市街から食料品、医療品、武器などの物資を運んだり、人々が行き来したり、まさしく孤立したサラエボ市民の命を繋いだトンネルです。 |
壁には銃弾の跡が生々しく残っていました。 | ||
このトンネルは、サラエボ空港の下を通り、この民家の下まで掘られていました。 |
紛争時、白い部分がボスニア領域で、セルビア軍に包囲されましたが、空港は国連軍がいたので、地下にトンネルを掘って物資を運びました。 | 空港です。 |
ヴィシェグラードは、ボスニア・ヘルツェゴビナにありますが、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)に属します。,ボスニア紛争以前の1991年頃まではボシュニャク人(ムスリム)が62.8%,セルビア人(正教)が32.8%でしたが、紛争後セルビア人が制圧しました。 |
ソコルル・メフメト・パシャ橋は、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部、スルプスカ共和国の町ヴィシェグラードにある橋で、市内を流れるドリナ川に架かっています。オスマン帝国の宮廷建築家だったミマール・スィナンが16世紀末に手がけた橋で、当時のオスマン帝国の建築水準の高さを例証する産業遺産として、2007年にユネスコの世界遺産に登録されました。 |
中央を頂点として両側にゆるやかな傾斜で勾配がついています。
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ノーベル文学賞受賞の作家イヴォアンドリッチが住み,執筆したという住宅 | ||
3色旗のスルプスカ共和国の国旗 | セルビア正教の教会 |
第2次世界大戦中の1943年、チトー率いるパルチザンと、ドイツ軍とのネレトバの戦いで有名な地です。ネレトバ川にかかる鉄道橋が中央で爆破されました。橋の残骸と列車の機関車が川の谷間に残されています。 |